2010年12月1日  第143話
           無常迅速 生死事大         
              すみやか            もろ
      光陰は矢よりも迅なり、身命は露よりも脆し  修証義 
                                                               

●あらゆる現象の変化して止むことがなく、瞬時たりとも、同じ姿を止めることはない

 地球は自転しながら太陽の周りを公転しています。どのくらいの早さで自転しているかといえば、地球一周を赤道上で計るとおよそ4万kmです、これを24時間で割り算すると、赤道付近の自転速度は秒速473mになる。ちなみに、東北新幹線が青森まで延伸されましたが、東海道・山陽新幹線「のぞみ」は時速300km、秒速にすると、83mですから、地球の自転速度がいかに早いかということです。

 また地球は365日で太陽の周りをまわる。公転速度は秒速29.78km、すさまじいスピードです。さらに太陽系が銀河系を公転する速度は秒速220km、これはもう人間の思慮分別のおよぶところではありません。朝に太陽は東より出て夕べには西に沈むけれど、日の出・日の入りの時刻は日々同じではない。夜空に輝く星々も刻一刻とその位置が変化している。

 地球の自転・公転という姿でとらえると、時の過ぎゆくさまが、そしてすごく速いことが、なんとなくわかる。ところが宇宙という広がりの中では、天文学的に理解はできても、人間の認識をはるかに超えたものであるから、実感がわきません。地球上のどこであっても、一日は24時間、一年は365日で同じである。けれども地球も宇宙も瞬時たりとも、同一でありえず、たえず変化しています。

今年も師走になった、時の過ぎゆくのがなんと早いことかと感じるのも、年の瀬の頃です。いつのまにか、こんなに歳をとってしまった、来春には、また一つ歳をかさねることになると嘆いてみてもしかたのないことですが、時の流れが止まらないように、すべてのものは同じ状態を止めることはありません。万物は、時の推移とともに移り変わっていきます。あらゆるものは瞬時たりとも、同一でありえないのです、これを諸行無常という。

自己として認識されるものも、実体のないものであるから、自己に対する執着は空しい

 地球の自転によって昼と夜があり、地球の公転によって日本には春夏秋冬がある。そして大気や海流の流れ、台風など地球上のあらゆる動きがうまれます。そこには、生きとし生けるさまざまな命のいとなみがあります。そのさまざまな命は食物連鎖にみられるように、互いに関係して存在しています。自然界では、金やプラチナなどの希少金属(レアメタル)の精製にも微生物が関係しているというから驚きです。この世に存在しているものは、どんなものでもそれ自身で成立しているものはなく、かならず一定の原因と条件のもとで成立しています。

 私たちは、父母の出会とさまざまな条件がそろったことによって、この世に命を受けました。けれども、生まれてくる前は何もなく、実体が無い。そして死んでしまうと、何もかも消滅してしまい、また実体が無くなる。この世に存在するもので、永遠不変のものは何一つない、今生きている、実在する命も永遠不変ではありません。

 いつまでも若くありたい、いつまでも愛する人とともにいたい、そう願うけれど思いのままにならない。 「いつまでもあると思うな親と金」 などといいますが、そのとうりで頼りにしたい親もいつまでも元気で生き続けてくれません。これだけあれば楽々と思っていても、財布のお金は減るばかり、永遠不変のものは何一つない、ままにならないのがこの世の中です。

自己の肉体は、今、実在しているといっても、明日はわからない、いつ消えてしまうかわからない空虚なモノです身と心は一つのモノですから、心も正体のない空虚なモノです。そんな空虚なモノが自己主張して、自分流の主観で認識するから、現実をありのままに受けとめることができないで、なにごとにつけても、妄想してしまいます。愛する人も財産も大切に思うけれど、永遠不変でないから、いつまでも存在してくれません。その存在に執着しても、ことごとくが実体のない空しいものです、これを諸法無我という。

煩悩の炎が吹き消された安らぎの境地を涅槃寂静という

 この世の中に存在するものは、瞬時たりとも同じ姿を止めず、そして実体のないものばかりです。今、実在している自己の肉体も、いつ消えてしまうかわからない空虚なものです、なのに私たちは執着します。そして自分流に認識するから、現実をありのままに受けとめることができないで、なにごとにつけても、妄想して、悩み苦しみます。

 妄想の原因は自分自身の三毒です。すなわち貪りの心、怒りの心、愚かな心に負けてしまい、欲におぼれて、自分を見失ってしまう。自分の小さな欲の心でものごとをとらえようとするから、ものごとの本質が見えないのです。そして欲がまた新たな欲を生む、この欲の連鎖すなわち煩悩のために欲の底なし沼にはまりこんでしまい、苦しみがまた新たな苦しみをつくることになる。

 
涅槃ねはんとはインドの古い言葉であるニルバーナの音写です、煩悩の炎が吹き消された状態の安らぎの境地をいいます。お釈迦さまは煩悩の炎を消しなさいとおしえられました。涅槃とは生命の火が吹き消されたという意味もあり、入滅、死去を涅槃に入るという。死ななければ、煩悩の炎が消えた安らぎの涅槃寂静の境地に入ることができないのでしょうか。

生死の世界にとどまることなく、かといって涅槃の世界にも入らない状態、すなわち生死煩悩の迷いの世界にも、さとりの世界にもとどまらない涅槃のことを、無住処涅槃といいます。
 仏教では人間の理想的な生き方を、菩薩の行とする。あらゆる人びとを救うためには、自らがさとりの境地に入っては救うことができない、かといっても煩悩にとらわれても救うことができない、それで、自らは悟りの境地を体験しつつもその世界にとどまらず、悩み多き人びとの住む生死界にあって人びとを救う活動をすることこそ、菩薩の行であると説きます。

現前のあらゆる事物が、そのまま真実の姿である 

 時の流れが止まらないように、すべてのものは同じ状態を止めることはない。万物は、時の推移とともに移り変わっていく、この世は諸行無常です。そして、この世のすべての事物のことを諸法といいますが、そのことごとくが永遠不変なものはなく、諸法無我です。だから執着しても、「色即是空」、実体がなく、空しいものです。したがって、なにごとにつけても執着しない(こだわらない)ことです。

 この世のことごとくが実体のないモノなのに、執着して自分流に認識するから、なにごとにつけても、妄想して、その結果、悩み苦しんでしまいます。妄想の原因は欲深き煩悩によることから、この煩悩の炎を吹き消さなければ、悩み苦しみはなくならない。この
ことに気づいたならば、できるだけ速やかに涅槃寂静の心境をもとめようとすべきです。己の心を空しくしてはじめて、現前のことごとくがありのままの真実の姿を露呈しているという、諸法実相の道理がわかるというものです。

 今年の5月に打ち上げた金星探査機「あかつき」は5億キロの宇宙の旅を経て、金星付近に到達しました。宇宙航空研究開発機構は、12月7日朝にエンジンを逆噴射させ、減速して金星を周回する軌道にのせる予定でした。日本初の惑星周回軌道投入は成功しなかったけれど、12月8日には金星の近くを通過しました。12月8日は、お釈迦さまが成道された日です。お釈迦様は、明けの明星である金星の輝きとともに諸行無常、諸法無我、涅槃寂静すなわち、諸法実相の道理を悟られました。

人は心静かな安楽の境地である涅槃寂静の心境にしてはじめて、この世の何もかも、目の前のすべての事物、すなわち諸法をありのままにみることができる。そのすべての事物はみな真実の姿である実相を露わにしていることがわかる。このことに気づくことが真の幸せを得るということでしょう。
 この世はなんと美しいところであろうか、生まれてきたこと、そして、今、生きていることがなんとすばらしいことであろうか、こう思えるならば幸せです。こだわりをはなれて、明けの明星の輝きに、本当の幸せを感じたいものです。

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