2011年7月1日  第150話
        帰依三宝(きえさんぼう)
     早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて
     衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし 
                          「道元禅師」
 
    

なぜ、聖徳太子は17条の憲法の根本を、帰依三宝においたのでしょうか

 聖徳太子が推古天皇の摂政として国政にあたられた時代は、豪族の勢力争いで国がとても乱れていました。それで聖徳太子は政治を安定させるために、国のきまりをもうけられました。それが西暦604年に制定された17条の憲法です。律令国家として憲法を制定し、国づくりをすすめました。

「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり・・・」17条の憲法の第2条に篤く三宝を敬えとありますが、ものごとの基本となる考え方を仏教の三宝を敬うことにおかれたのです。三宝とは、「仏宝」「法宝」「僧宝」です。なにゆえに聖徳太子は憲法の根本を三宝帰依(帰依とは身心をまかせること)にしたのでしょうか。

 人は、自分の日常をもとに判断しがちです。ほとんど預金のない人の百円と1億円もっている人の百円は同じ百円ですが、それぞれの思いがちがうように、その人その人で物差しがちがいます。ものの是非、損か得か、善悪などの判断をするとき、無意識のうちに自分の物差しで判断してしまいます。

 人それぞれに、それぞれの物差しや価値観があります。しかも、その物差しも絶えず変化して気まぐれです。価値観や判断基準というものは、人によって、また地域によってもさまざまだから、だれもが共通して認めることのできる基準を持つ必要があったことから、聖徳太子は仏教の三宝帰依の教えをその基本とされたのでしょう。

この世の真理が「仏」、真理の教えが「法」、真理のもとに和合するものが「僧」

 人間が思い描く唯一絶対の神があって、この世はその神が司っているとすれば、その神に代わってこの世を支配しょうとする人間が必ず現れます。支配しようとする人間は同じ思いの他と争いをくりかえします。また、いつの時代でも政治家個人が私利私欲を、政党が党利党略をむきだしにすれば、争いは絶えず世は乱れます。

 人はそれぞれ自分の考えというものをもっているから、自分の経験や主観でものごとを判断しようとします。けれども個人的な価値観や主観で政治をすれば、混迷混乱をまねきかねません。そこで個々の価値観や主観を認めた上で、民主主義では万機公論に決するところに方向を見いだそうとします。

 東日本大震災では、想定外という言葉をよく耳にしますが、自然現象に想定外という表現はあたりません。天地自然において人間の力のおよぶ範囲は微々たるものです。人間の価値判断をもってものごとを把握しょうとすれば見当違いを起こすことから、何ごとにおいても、世の真理に照らして事に処するようにと聖徳太子は説かれた。それで治世の根本を真理の具現である帰依三宝におかれたのでしょう。

 この世は自然(じねん)そのものであり、森羅万象はそのままに「仏」(この世の真理)であることをお釈迦さまは悟られた。その真理をお釈迦さまは「法」として人々に説き、その教えである法にしたがって和合してともに生活するものを「僧」とした。聖徳太子は「仏」「法」「僧」の三宝に帰依することで、平和に、だれもが幸せに生きていける世界が開けると、仏法僧の三宝帰依をもって仏国土づくりをめざされました。

この上ない正しい悟り・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)

 雨上がりの木々の生き生きとしたさまに、生きている生命のいぶきを感じたり、山々の神々しいばかりの雄々しさに、おもわず見とれたり、雲の流れゆくさまに、降りしきる雨の音に、ふと己の存在を忘れることがあるでしょう。森羅万象に生きとし生けるもの、人も、ともに生かされていることに気づくでしょう。そのもののすべてを露(あらわ)にしているもの、疑いなきもの、にごりなきもの、それらを「仏」(この世の真理)とよぶ。仏を、この上ない正しい悟り、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)という。

 人間関係で疲れたり、思い悩むことが多いとき、ふと夜空を見上げると満天の星の輝きに、己の心の了見のせまさに気づかされる。星々はなにも語らないけれど、ほんとうのあるべき己の姿と生き方を教えてくれる。この真実の導きこそが「法」であり、阿耨多羅三藐三菩提です。

 我執を離れ心空しくすれば、己の我執も個性も阿耨多羅三藐三菩提に溶け込み滅却する。道元禅師はこれを感応道交(かんのうどうこう)するといわれた。阿耨多羅三藐三菩提に溶け込んでいるお互いが和合すれば、自他の区別はない。一如に和するものを「僧」という。僧伽(さんが)とは比丘、比丘尼、優婆塞(うばそく・信士)、優婆夷(うばい・信女)の四衆すなわち、出家在家のすべての和合衆を指す。互いに信頼し尊敬し合い、和合衆が集まるところが寺(伽藍)です。

 天の星も、地上の山も川も、トンボもカエルも、あるがままにその姿を露(あらわ)にしている。この世の何もかもが、ありのままの姿である阿耨多羅三藐三菩提を露にしています。ところが露な姿をそのままに受けとめることができないのが人間です。
 お釈迦さまはこの世の真理をあるがままに悟られて仏陀「仏」となられた。おさとりになられた真理・教えが「法」です。「仏」と「法」に帰依して修行する集まりが「僧」です。
 仏宝も、法宝も、僧宝も阿耨多羅三藐三菩提の具現です。仏は是れ大師なるがゆえに帰依す、法は良薬なるがゆえに帰依す、僧は勝友なるがゆえに帰依す。

帰依三宝を軸足にして、自分の生き方に自信をもちましょう

 仏法僧の三宝は仏も法も僧も阿耨多羅三藐三菩提(この上ない正しい悟り)そのものですから、仏と法と僧は一体のもの、それで「一体三宝」といいます。
 2500年前のお釈迦さま在世の頃は、人々に教えを授けられていたお釈迦さまが仏であり、法であり、僧であった。お釈迦さまご自身が阿耨多羅三藐三菩提でしたから、お釈迦さまが仏宝であり、お釈迦さまが説かれる教えが法宝であり、お釈迦さまと弟子たちが僧宝でした。お釈迦さま在世時の三宝を「現前三宝」といいます。

 お釈迦さま滅後の長い年月においては、お釈迦さまや諸々の仏を仏像や仏画にして、これを仏宝とし、お釈迦さまの教えをさまざまな教典として、これを法宝として、和合する仏弟子を僧宝として、阿耨多羅三藐三菩提を受け継いできました。住持とはたもつの意で、滅失せずに持続すること、阿耨多羅三藐三菩提を後世に受け継いでいくことを「住持三宝」といいます。
 昨今、日本仏教は堕落したといわれる。寺院の伽藍や庭園は観光で訪れるところ、仏像や仏画は鑑賞の対象で、僧侶は仏法を説かず、葬式法事のお経の読み手にすぎないのでしょうか。僧侶を尊敬できない、頼りがいがないと、批判の声も聞かれますが、社会的信頼を失った僧侶はもはや僧宝ではありません。

 現代人の多くが、軸足が定まっていないがために、社会の動きや世相に翻弄され、自己を見失いがちです。わがまま勝手な生き方を懺悔して、自分を変えていく、時には静かに坐り、背筋を伸ばして、呼吸を整えますと、この世の真理すなわち阿耨多羅三藐三菩提が見えてくる、聞こえてくる。自分の仏性(仏である本性・真実人体)と仏心(慈悲心)を常によびさませておけば、自分の生き方に自信がもてるでしょう。

 「仏」真理を求め、「法」真理に生き、「僧」真理を実践して、ほんとうの幸せを見つけましょう。三宝に帰依することが、この世の真理に目覚める第一歩です。東日本大震災があり、経済も低迷し、政治も混迷しているこの頃です、悩み多き人々の時代には、軸足をしっかり定めて、ぶれないことが大切です。帰依三宝を軸足にして、世の真理に照らして事に処する能力を養っていきたいものです。

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