2012年2月1日 第157話
               不放逸(はげみ)    

   精進
こそ不死の道 放逸こそは死の道なり
   いそしみはげむ者は 死することなく 
   放逸にふける者は 生命ありとも すでに死せるなり

   明らかに このを知って いそしみはげむ き人らは
   精進の中に こころよろこび
   聖者の心境に こころたのしむ       法句経


お釈迦様は驚くほど長寿であられた

 現代のインドは12億人近い人口で、平均寿命は64,8歳ですが、2500年前では平均寿命が40歳ぐらいだったかもしれません。ところがお釈迦さまは、2500年前に80歳の長寿をまっとうされた、それは当時としては驚くほど長寿であったのでしょう。

 お釈迦さまの生涯において、出家から苦行の6年間はさておいても、お悟りになってからの40年間の長きにわたり、衣は法衣一つ、食は人々からの施し、住む家も持たず、財を蓄えず、ただひたすらにこの世の真理である法を説いて諸国をまわられました。行く先々で人々の苦悩を受けとめられて、生きる意味を説かれた。お釈迦さまの過酷なまでの生活からして、まことに長寿であったことが不思議でなりません。

 今日の日本では、老いの身で自立自活するのが困難であることに苦悩しながらも、孤独な生活をおくっている人々が巷にあふれています。急速度で到来した高齢化社会にあって、人々の生活ぶりをどのようにすべきか、今まさに社会保障と消費税との一体改革が政治の論点になっています。それはそれとしても、では自己の生き方はどうなのでしょうか。

 2月15日はお釈迦さまのご命日です。お釈迦さまは息をひきとる直前まで、少欲知足を日々の心得として、自らを依りどころとして、法を依りどころとして、おこたることなく精進して、無上の法を体得することの大切さを弟子たちに説かれました。高齢化社会の現代に生きる私たちにとって、驚くほどに長寿であられたお釈迦さまの生き方を知ることで、生きていく上でのヒントがあるように思われます。

向上心を高めるとは、ものごとの本質を求め続けるということです

 格差社会のあらわれでしょうか、日本では生活保護にたよって命をつないでいる人が最近多い。その数字は大都市圏において過去最大であり、職を得られない人が多いことも一因だというが、65歳以上の高齢者、しかも一人住まいの方に多いようです。生活保護を受け始めると、人との交流を小さくしてしまうという、これも問題です。

 またうつ病で悩み苦しんでいる人が若い世代に多く、しかも世界中で日本の若者の割合が際だって多いのです。何がそうさせてしまったのか、若者が活躍する場が奪われてしまったのか、生きる希望と勇気を持つことができない、そういう社会になってしまったのでしょうか。
 若者は世間に背を向けてはいけません、狭い了見では人とのつきあいにおいても、寛容な気持ちがもてなくなる。また高齢者は老いたりといえども、生き方が消極的になると、何かにつけて感度が鈍くなるでしょう。

 蝶は幼虫からサナギになり、やがて脱皮して蝶に、劇的な変貌をみせる。蝶のように古い皮を脱いで新しい自分に変えていくと、一回りも二回りも大きく成長できる。脱皮しないでいつまでも過去にこだわっていると、そこから抜け出せない。自分が変わらなければ、自分を変えていかなければ、何ごとにおいても前途は開けてこない。脱皮するということは過去にこだわりを持たない、執着しないということです。

 生きる希望も勇気もなくして、生きている意味をも感じなくなってしまったと思いこんでいる人のいかに多いことでしょう。とくに若い人ならば人生はこれからです。また、老いたりといえども生き方が消極的になってしまえば、幸せ感を得ることはできない。
 生まれてきたからには、誰もが生きていく喜びと楽しみを得ることができなければ、せっかくこの世に生まれてきた甲斐がない。向上心を失わず、向上心を常に鼓舞して、ものごとの本質を求め続けて生きていく限り、その人は幸せの歩みを踏み外すことはないでしょう。

自他ともに喜びの感動を共有できれば、それほど幸せなことはない

 気持ちが落ち着かず不安な日々を送っている人でも、心にしみる音楽の調べに心安らぐことがある。それは気持ちが穏やかになるばかりでなく、生きる希望や勇気さえもよみがえらせる。美しい絵にふれたり、自然の中に身をおいたり、また、ちいさな生き物たちの生きる命の輝きを見るとき、ものの見方が変わったり、発想のひらめきがあったり、生命の躍動する姿に感動することがあるでしょう。

 感性とは感受する能力と、それにより行動する能力です。意識して感性のレベルを上げていくと、より高いものを求めたくなる。感性のレベルを高めるとは、絶えず感性のレベルアップに努めることです。自己の感性のレベルを高めていくと、音楽であれなんであれ、他との協調を喜び、異質のものをも受け入れてよりすばらしいものをつくりあげていこうとする意欲もわいてくる。美しいものにふれることで、人は穏やかな、心安らぐ気持ちを持つことができるでしょう。

 2011年10月に亡くなったアップル社の代表責任者であったステイーブ・ジョブズさんは「心の琴線にふれるものづくり」をめざされた。成功するとはあきらめないこと、成功するまでチャレンジされた。人とちがうことを恐れるようになったらダメだと、自分の感性を信じて、技術を高めて、どんな価値を生み出すか、本質は何かを探し求めて、ぶれることなく、驚きと感動を世におくりだした。ステイーブ・ジョブズさんは禅に興味を持ち禅僧とも交流があった、禅には心にひびくものがあったのでしょう。 

 うれしいときに喜び、悲しいときに涙する、こういうことが人の自然な姿です。そして他の悲しみを自分のこととして悲しむ、他の喜びをともに喜べる、喜びと感動を求めて絶えず自分の心の琴線をふるわせることができれば、それは他の人や社会にも影響して多くの人々の心の琴線をふるわせ、感動を与えることにつながり、自分も他もともに深い喜びの感動を得ることができる。自他ともに喜びの感動を共有できればそれほど幸せなことはないでしょう。

幸せとは、他に必要とされる生き方をすること

 この世は人間だけでなく、なにもかもが互いに関係しあって存在している。それぞれが互いを必要とすることでこの世は成り立ち、それぞれが存在しています。
 人間だけでなく、なにもかもが互いに必要だからこの世に生まれてきた。ところが人間は強欲のあまりに殺生など傍若無人のふるまいをして、人と人、人と自然の互いに必要な関係を壊してしまうことがあります。

 人は一人では生きていけません、生きとし生けるものも同じで、ただ一つで存在できるものはない。人間という言葉の意味は、世の中ということです。世の中に生きているということは、一人ひとりが世の中の構成員であり、他の人とのつながり、支え合う存在です。すなわち必要とされる何かがあるから、その人は存在している、必要でなくなれば存在する意味を失うということでしょう。

 未来はすぐに今になり、今はすぐに過去になる。過去にこだわると未来が見えない、過去を引きずって過去に執着すれば、今がなくなる。読み終えた新聞を処分するように過去を考えず、短い一生ですから、「今を、どのように生きるか」でしょう。
 少欲知足を日常の心得として、自らを依りどころに、法を依りどころとして、おこたることなく精進して、他の悩み苦しみを受けとめて、感動と生きる喜びを他にあたえ続けるかぎり、お釈迦さまのように長寿に生きられるでしょう。

 ”なぜ”ということがいつも念頭にあれば、”なぜ”、この世に生まれてきたのか、自分が”なぜ”他を必要とするのか、自分は他に”なぜ”必要とされるのかがわかる。
 この世では、他に必要とされる生き方をするという自覚が大切です。自分はこの世でどのように必要とされているのか、なにをすればよいのか、永遠に見つからないかもしれませんが、熱っぽく自分探しを続けていくべきです。幸せとは、他に必要とされる生き方をすることでしょう。

                          
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