2012年5月1日 第160話 |
平常心是道 |
春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、 |
如何是道 趙州和尚が師の南泉禅師に「如何是道」(道とはどんなものでしょうか)とたずねた。 その答えが「平常心是道」(ふだんの心こそが道である)でした。 ここでいうところの道とは仏道ということです。 趙州が「その心はどのようにしてつかむことができるのでしょうか」と重ねて問うた、 南泉禅師は「つかもうとすれども、つかむことができない」と答えた。 趙州和尚は「つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないでしょうか」とさらに問うた。 これに対して南泉禅師は「道は考えてわかるようなものではない、しかし、わからないといってしまうこともできない。考えてわかるというものであれば妄想になってしまう、わからないとすれば意味のないことになってしまう。」と答えた。 さらに、「理解できるとか、理解できないとかという分別を離れてみると、自ずからそこに道が現れる。あたかも晴れて澄みわたっている秋空のようなもので、分別を入れる余地がまったくない」と答えたえたので、趙州はその答えを聞いて悟ったということです。 |
平常心是道 平常心是道とは「へいじょうしんこれどう」または「びょうじょうしんぜどう」と読みます。 「平常心」とは常日頃、平生(へいぜい)の心構えや態度をいいます。 唐の南泉禅師とその弟子趙州禅師の問答で、南泉禅師が「平常心」といい、趙州がこれを「道」と会得し、「日常の用心」と悟った。 この公案を瑩山禅師の師である義介禅師が説き示されると、瑩山禅師は「日常あるがままの心が仏道そのものである」と、たちまち心が開け、「我れ会せり」と思わず叫ばれたそうです。 義介禅師がどのようにわかったのかと問われると「黒漆の崑崙、夜裏に奔る」それは黒い玉が、闇の夜を飛んでいくようなものです、「道」といい「仏法」といっても見分けがつかないと答えられた。 義介禅師にさらにその意をのべよといわれたとき、「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては、飯を喫す」と、この答えは義介禅師の意にかなった。そして瑩山禅師は義介禅師より印可証明を得られる、時に瑩山禅師二十七歳、そして翌る二十八歳の正月、師の法を嗣がれました。 |
人間の好時節 「平常心」とは「ありのまま」「そのまま」という意味です。これを四季の移りゆくことになぞらえて人の生き方を無門和尚は次の詩であらわされた。 春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、 [無門関第十九則] 春には花が咲き、秋には明月が天にかがやく、暑い夏には涼しい風が吹き、冬には雪がさえざえとしている。春夏秋冬いつでも好時節である。「閑事の心頭に挂る無き」とは、晴れわたった大空のような本来清浄な心境をいう。 人間のくだらない考えを差しはさまなければいつも好時節です。「ありのまま」「そのまま」の心が「平常心」だといっても、妄想や分別心を払いのけ、閑事すなわち実生活に役立たぬ事を断ち切ることが条件です。なわち仏道とは容易なものではない。 |
日常の心がけが、すなわち「仏道」なり 「平常心」とは非日常的でなく、いつでもどこでも持っている心で、「平常心是道」とは、日常変わらず持っている心をいう。道とは仏道のことです。日常生活がそのまま道のあらわれでなければならない。 道とは頭で理解できるものではないが、理解できないと意味をなさなくなる。自分自身のまわりをあらためて見直し、歩むべき真実の「道」を見出すようにしたいものです。 お茶をいただく時にはありがたくいただく、食事の時には感謝していただく、お茶の時テレビを観ている、新聞を読みながら食事をとっている、車を運転しているときわきみばかりしている。そんな私したちの日常をふり返るとき、余念を交えることが多く、真実を歩むことが少ない。 歩むべき人間の道からはずれないことです。求道とはどの道であっても容易なものではない。いずれにしても、日常の生活をほかにして人の道はない。自分の日常生活を怠惰に過ごして無駄にせず、当たり前のことを当たり前に行う心を大切にて、道を求め続けることです。 |