2012年6月1日 第161話 |
百尺竿頭進一歩 |
百尺竿頭に 無門関 |
百尺竿頭にすべからく歩を進めよ 石霜和尚と長沙景岑禅師の問答です。石霜和尚の「百尺竿頭如何が歩を進めん」という問いに、長沙禅師は「百尺竿頭にすべからく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」と応じた。 竿頭とは物干し竿のことですが、竿頭を崖っぷちとすれば、さらにその先に一歩を進めれば、踏み外して落ちて死んでしまいます。高い竿をのぼりつめたところで、そこからさらに一歩をのぼり進めれば、もうつかまるものはなく、まっさかさまに転落して命を失ってしまう。いったいこれはどういうことを意味しているのでしょうか。 百尺の竿の先端に坐すことなどできないでしょうが、たとえばということで、坐しているとしましょう、ところが坐している人は、まだ本当に悟った人ということができないのです。百尺の竿の先端よりさらに一歩をすすめて、十方世界に自在に自己の全身を実現できる人が悟った人だからです。 百尺竿頭とは長い竿の先のことですが、それは、きびしい修行を経て到達できる悟りの境地です。修行のすえに悟りを開いたとしても、修行の道に終わりはないから「さらに一歩を進めよ」ということです。 |
百尺竿頭に止まってはならない 修行を積んで徳を重ねたとしても、そこにとどまってしまえば、そして、そこに安住して執着してしまえば、もはやそこは百尺竿頭、すなわち、きびしい修行を経て到達できる悟りの境地ではない。百尺竿頭に止まってはならないのです。 仏道を窮め尽くしたとしても、そこに踏みとどまってはいけない、頂点を極めたとしても、そこにとどまっていないで、さらに向上すべしということでしょう。さらなる努力がなければなりません。悟りはすなわち修行です、修行が悟りですから、そこに踏みとどまってはいけないのです。 また、百尺竿頭に止まってはならないとは、悟りの境地に達したといえども、衆生を救う努力をしなさいということです。悟りの境地にとどまらずに、生死界に身をおいて、利他の行をなすべしということをも意味しています。 一般常識で判断してはならない、悟ったかのような錯覚にはまりこんで、修行生活を止めてはならない。全身全霊をもってさらに精進すべきことをおしえています。仏道を窮め尽くしても、そこに踏みとどまってはいけない、頂点を極めても、さらに向上すべしということでしょう。 |
須く、終わりというものはない 山岳家は目指す山の頂点を極めて、その山の頂に立つと、さらに次に目指すべき山の頂に立つことを思い描く。次々と挑戦すべき山の頂がある、どこまで登っても終わりがないでしょう。 科学者は研究し、探求すべきものを発見できたとしても、もうその瞬間には、次に目指すべき研究の対象を見定めている。研究には終わりというものはない、疑問や課題は尽きることない。窮め尽くすことに終わりがないということは仏家も同様です。 山岳家も、科学者も仏家も、この世の中に生きているものとして、努力して高みのてっぺんをめざすことは、自己自身の修行に他ならないのですが、そのことは同時に、この世で他を救うことに通じているからこそ意義があるのでしょう。「百尺竿頭に一歩を進める」とは、利他の一歩でもある。 努力して高みのてっぺんに行きつくことができたとしても、「これでいい」とそこで満足せずに、何かの奥義を極めるとは、行き着くところまで突き進んで、もうこれ以上はないというところをさらに極めよ、さらに努力せよということです。新しい世界へさらに飛躍するということです。 |
百尺竿頭に一歩を進め、十方世界に全身を現ずべし 「百尺竿頭にすべからく歩を進める」とは、常識の世界にとどまらず、生まれてきたときから慣れてきた物の見方や考え方、思慮分別を切断して、「百尺竿頭に坐し」思い切ってさらに一歩を進めれば、必ず悟りは開けるであろう。 また仏道を修行しようとするならば、捨てがたい一切のものを思い切って捨ててしまう。断ちがたいもろもろの執着を断ち、自らの身体や命すら惜しむことなく、すなわち不惜身命で邁進せよということです。「百尺竿頭に一歩を進める」とは努力を怠らず、向上心をもち、さらに歩みを進めよということです。 「百尺竿頭に一歩を進める」とは、悟りの境涯にあって自利の頂上を極めそこに腰をすえることなく利他の誓願を発して、衆生済度の利他行に一歩を進めよということでもあります。世俗世間に身をさらして、衆生を救う努力をしなければならないと長沙禅師は言っています。 「百尺竿頭に一歩を進める」ということについては、以上の三通りの解釈ができる。「百尺竿頭如何が歩を進めん」の問いに、「百尺竿頭にすべからく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」と長沙景岑禅師は応じた。何ごとにおいても、全身全霊をもってさらに精進すべきことをおしえています。 |