2012年7月1日 第162話 |
照顧脚下 |
おのれこそ、おのれのよるべ、 おのれをおきてだれによるべき、 よくととのえられし、おのれこそ、 まことえがたき、よるべをぞえん 法句経 |
履物をそろえて脱ぐ、心のゆとりが欲しいものです お寺へ来られた方が履き物を脱いで本堂に上がられる、その履き物の脱ぎ方もいろいろです。来た向きのままに脱ぐ人もあれば、履くときの方向に脱ぐ人、無造作に脱ぎ捨てる人、履き物をきちんと揃えて脱ぐ人、また脱いで揃え直す人、さまざまです。 また大勢で来られたときに、初めの人が履き物を揃えて上がられると、後に続く人も、皆さん揃えて上がられます。また大勢の人の中には履き物が乱れていると他の人の履き物を直して揃えられるお方もおられる、そんな人がおられると整然と履き物が揃えられています。 また、便所でも誰かがスリッパを乱雑にされますと、他の人も同じように乱雑に脱ぎ捨てられる。でも、誰かが揃え直されると、その後はそれにならって揃えて脱がれる。 玄関を見ればその家の生活の様子がよく分かるといいます。玄関は家の顔です、履き物が綺麗に揃っている家は、家族みんなの心がおだやかでしょう。 心にゆとりが出来れば自分自身の姿もよく見えてくるでしょう。自分の履物をそろえることは、そのまま自分の心の整理整頓になります。脱ぐ前にそろえておくと 履くときに心が乱れない。自分で履物をきちんとそろえて脱げるようになったら、他人の履物の乱れも直せます。どんなに忙しいときでも、履物をそろえて脱ぐ、心のゆとりが欲しいものです。 |
照顧脚下とは自身を顧みよということです 禅寺の玄関に「照顧脚下」「看脚下」と書かれた木札を見かけられたことがあるでしょう。 照顧脚下とは足もとに要心せよ、足もとに気をつけてそこつなふるまいをせぬようにということです。 履き物を乱雑に脱ぎ捨てるなということですが、照顧脚下は自己反省の意味もあって自身を顧みよということでもあります。 自分の足もとを見ることもしないで、他人の足もとによく気がつき、ついつい他人の批判をしてしまうということもよくあることです。他人を批判する前に自らを顧みよということでしょう。他に向ける目を自己に向けて常に自分の足もとをおろそかにせぬように気をつけることが大切です。汝自らを知れ、自己を反省せよということでしょう。 勝手口でなく正式な建物の正面の出入り口を玄関といいますが、もとは禅寺の客殿の入り口を玄関といい、これが一般に広まって玄関というようになったということです。 玄関の玄とは奥深いこと、関とは要所のことで、奥深いおしえ、玄妙な道に入る関門という意味です。 禅寺の玄関は仏道に入る幽玄な関門で、悟りの境地に至る難透の関所ということです。それで「照顧脚下」とか「看脚下」と書かれた木札を置いています。「照顧」とは観照顧慮のことで、要心する・注意するという意味です。「脚下」とは足元のことをさし、玄関を入るにつけてよくよく自己を省みよと、促しているのです。 |
脚下を照顧 外物に気を向けてしまうと、ややもすれば自分のことを忘れて、心が揺れ動いてしまいます。また目の前のことばかりに気をとられていると、先のことが見えなくなり前向きに生きられません。しかし前ばかり見すぎると足もとがおろそかになり、自分の立っている場所さえわからなくなってしまいます。それで立ち止まって自分の足もとをよく見るということも大切なことです。 前方に眼をやりそれに心を奪われて足元を忘れていると、石につまずいたり、転んだりして怪我をすることがあります。また足元をしっかりさせていないと足を取られてしまうこともあります。自分の内面に眼を向けないで他に向かっていても、本当に目覚めることはできません、自己内省が大切です。 禅宗では僧が行脚すなわち修行のために歩いて旅をする、また托鉢などのときに網代笠(あじろがさ)をかぶります。それはまわりのことに気が向いてしまわないように、常に自己を見つめて、足もとに要心するためにかぶります。ひたすらに自己を見つめてまわりに気持ちを奪われずに、脚下を照顧させるのです。 「脚下」とは足元のことをさしていますが、本来の自分、自分自身のことです。「照顧」とは反省し、よく考える、よく見るということです。「脚下照顧」とは、他に向かって悟りを追求せず、自分の本性をよく見つめよという」戒めの言葉です。他に向かって理屈をいうまえに、まず自分の足元を見て自分のことをよく反省する、足元に気をつけよ、身近なことに気をつけよという意味でもあります。 |
自分を顧みることを忘れぬように 禅寺の玄関の「照顧脚下」とか「看脚下」と書かれた木札を見て、はきものを揃えなさいという意味に受け取られているかもしれませんが、それならば「はきものをきちんと揃えましょう」と書けばよくわかるはずです。 禅寺の客殿の入り口を玄関といいますが、玄関とは仏道に入る幽玄な関門のこと、悟りの境地に至る難透の関所ですから、自分を顧みることを忘れぬことと、「自己を問え」と一喝しているのです。それで「照顧脚下」とか「看脚下」と書いた木札が置かれています。 「照顧脚下」とは足元をよく見なさいということで、足元とは他ならない自己の足元です。他に向かってではなく、自分の本性をよく見つめよ、自分自身をよく見よということです。 法句経に「おのれこそおのれのよるべ、おのれをおきてだれによるべぞ、よくととのえし、おのれこそ、まことえがたき、よるべをぞえん」とありますが、自己を問うということです。 他に向かって求めず、自己の足元をよく見よということで、自分の足元を照らして顧みる、常に自分のことを見つめ直して反省することが大切です。自分を顧みることを忘れぬように「照顧脚下」「看脚下」を念頭において生活したいものです。 |