2012年8月1日 第163話 | |||
喫茶去 | |||
師云く、茶を喫し去れ |
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お茶でも飲みませんか 中国は唐の時代の趙州禅師の話です。趙州禅師は修行を目指して修行道場に来た二人の僧に対して、あなたは以前にこちらに来られたことがありますかと尋ねると、僧が「あります」と答えた、それで趙州禅師は「喫茶去」といいました。またもう一人の僧にも同じことを尋ねると、その僧は「ありません」と答えた、趙州禅師はまた「喫茶去」といいました。 院主(寺の管理職)が趙州禅師に、なぜ二人の僧に、「喫茶去」といったのかと尋ねると、趙州禅師は院主にも「喫茶去」と答えた。何ごとにも分け隔てをしないことが大切であることを理解させようと、趙州は三人に同じように「喫茶去」といったと伝えられています。 「喫茶去」とは「お茶飲でも飲みませんか」という意味です。 趙州禅師は初対面の修行僧でも、高僧であっても分け隔てなく、「まあ、お茶でものみなされ」と等しく接しられた。 私たちは、とかく利害や損得で、また地位や立場などを考慮して、相手によって分け隔てをしていないでしょうか。 「喫茶去」と書かれた色紙などをよく見かけますが、「茶を飲みなさい」という、ただこれだけの意味ですが、どうしてこれが禅語なのか、すぐに分かる人は少ないでしょう。茶を飲めということですが、仏道修行の上で深い意味があるようです。 |
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趙州喫茶去 禅宗で道を悟らせるために課する問題を公案といいます。趙州禅師は修行僧との問答において、いずれもお茶を飲んで行きなさい「喫茶去」といった。これは「趙州喫茶去」の公案としてよく知られています。 「趙州喫茶去」は「趙州の三喫茶」ともいう。分け隔てなく三人の僧に同じく「喫茶去」といったのは、古参新参を問わず、一刻でもはやく仏道を身につけて、悟りの因縁に逢いなされという思いが込められたからでしょう お茶を飲んで行きなさいという「喫茶去」は、修行ということにおいては、新参であろうが古参であろうが、修行のうえではなんら変わらない。修行に励めということを「喫茶去」といったのでしょう。 新参の僧も、古参の僧も、修行においてはなんの違いもない、ただひたすらに修行するのみです。すなはち修行こそが悟りであり、悟りこそが日々の修行そのものであることを、趙州禅師はお茶をふるまい、「喫茶去」をもって説jかれた。 |
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茶に逢ったら茶を飲む 茶道では、茶の接待において、相手によって差別があってはならないとします。茶を飲むことに違いはなく、茶に逢ったら茶を飲む、このことになんの差別があろうか。茶を飲むということ、茶の接待をすること、このいずれもが茶道です。 茶道において、茶室では客はその地位や肩書きのいっさいを脱ぎ捨てることになっています。貴人すなわち地位や身分の高い人であろうがなかろうが、亭主は老若男女に平等に接します。日常の暮らしでも、相手によって態度を変えたりすることなく、いつも泰然として、平常の心でいたいものです。 一般社会の日常のこととして、来客があると、「まあお茶でも召し上がれ」と、お茶をいれておもてなしをします。人が来たらお茶をすすめる、これが「喫茶去」ですが、だれにでも分けへだてなく「まあ、お茶でも召し上がれ」と応接しているでしょうか。 差し出されたいっぷくの茶をゆっくりと味わう、そのことに専念する。すなはち、余念なく茶と自分が一つとなる。また、茶を入れる者の心構えとして、美味しく入れてあげたいと客を思う心が一椀一椀にそそがれていることです。これは茶を飲むということだけでなく、あらゆることにもあてはまるでしょう。 |
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修行こそが悟りであり、悟りこそが日々の修行 趙州禅師は修行の未熟者にも、修行の練達者にも差別することなくお茶をふるまった。「喫茶去」とは自分の到達した悟りの心境そのものであり、三人の僧にも同じく「喫茶去」の言葉を発することで、それぞれの仏道修証の深浅度をテストしたのです。 茶道では、茶の接待において、相手によって差別があってはならないとします。茶を飲むことに違いはなく、茶に逢ったら茶を飲む、このことになんの差別があろうか。茶を飲むということ、茶の接待をすること、このいずれもが仏道そのものです。 仏道に入るには特別の入り口などありません、茶を飲むことも仏道の入り口です。だから趙州禅師は新参の僧にも、古参の僧にも、お茶をふるまい、「喫茶去」をもって、修行こそが悟りであり、悟りこそが日々の修行そのものであることを説jかれた。 趙州禅師は茶の味に高下なく、茶をすすめるのも、また飲むのも無心にて「喫茶去」すなはち仏道であると諭されたのです。「喫茶去」は喫茶して去れ、茶を飲みなさいということですが、日常生活の中に仏道修行があるということを教えようとするものです。茶を飲む時には茶を飲むことに専念する。日常のあらゆることにも共通することです。 |
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死別、その悲しみを乗り越えて 葬儀~中陰~百箇日・・・・・新しい自分に変えていく、
悲嘆からの歩み・・・感性と向上心を高める この世の真理を求め続けることに楽しみを見いだそうとするならば 生きている究極の喜びを感じることができる つらく悲しい日々の中にこそ、楽しいことを見つけましょう 今まで気づかなかったことがあるはずです |
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