2012年9月1日 第164話
                 追善供養

            日常生活の中の追善供養

 ご先祖さま

 8月のお盆が過ぎて、9月になると秋の彼岸、ご先祖様とふれあうことの多い時節です。
日本人の宗教的風土は先祖崇拝ですから、日常生活においてご先祖様のまつりごとをしますが、朝な夕なにご先祖様に感謝して手を合わすことを一日の始まりとし、また終わりとしてきました。

 一年通してみても、年の初めの歳神様迎えに始まり、お彼岸、精霊迎えのお盆、そして年中の折々にご先祖様のおまつりをします。日々の生き方においても、ご先祖様に恥ずかしくない生き方をしなければいけないとか、「壁に耳あり、障子に目あり」と、倫理の根本にもご先祖様を意識しています。

 日本人にとって「ほとけさま」といえば、仏法の「仏さま」と、ご先祖様の霊魂「ミタマ」をともに思い描くけれども、日本人の心の奥深くに思い描くホトケはご先祖の霊魂であるミタマなのかもしれません。かたちとしてあらわせば墓石や位牌としてまつられたホトケであり、また精霊という目に見えないミタマもホトケです。

 日本人は今日の高度文明社会にあっても、亡き人の霊魂は飛来して、正月には歳神さまとして門松に降臨して迎えられ、お盆には精霊として飛来して盆棚にまつられます。死者は成仏したホトケとなり、そのミタマは石碑や位牌に漂着していると考えられていますから、僧侶が石碑や位牌の開眼をして仏身となし、ミタマが漂着したホトケとしてまつられます。

魂を鎮める

 日本人の祖霊信仰では古来より死を忌み恐れ、死者を見えないところの埋め墓に葬り、魂は村落の中や寺の境内の清墓に祀り供養しました。関西には埋葬墓と詣り墓(清墓)の両墓制が多いのもこのためですが、近年は火葬により単墓式になりました。だが、墓参の後に塩や灰で身を清めることはやめないようです。

 人が亡くなるとお葬式をしますが、お葬式は人生の通過儀礼でなく、「魂の旅立ち、魂の再生の儀式」としておこなわれてきました。仏教が葬祭をとりしきるようになると、死者は仏の戒を受けて仏の位に入り、戒名が授けられ、あの世においても仏道修行を続けます。子孫から追善供養(生者の善行の報いを亡者に手向ける)を受けることによって、死んだ人の魂が親類縁者に祟りや差し障りをおよぼすことがないと考えられるようになりました。
 
 日本人の年回法事などの追善供養のかたちは、日本人の宗教的風土である祖霊崇拝が基本になっていますが、仏教や儒教の儀礼が合わさったものとしてつとめられるようになりました。日本人の民族信仰である祖霊崇拝に仏教や儒教の儀礼が融合して今日の追善供養のかたちになったと考えられています。

 追善供養とは生者の善行の報いを亡者に手向けることであり、追善供養をとおして、死者の魂は鎮められ、魂(ミタマ)は永遠に消滅することなく、成仏してホトケとしてまつられます。年回法事や、先祖供養の儀礼は霊魂の実在が前提となりますが、これらの追善供養は地域や習俗によって、さまざまなかたちで伝承されてきました。

追善供養

 お葬式において死者はお戒名を授けられ、仏弟子として葬られますが、その後、中陰(関西では逮夜)の供養がおこなわれます。これはインドの輪廻思想を仏教が受け継いだものといわれています。すなはち人が亡くなって次の世に生まれ変わるとされる中有(死有、中有、生有、本有の四有の一つ)の期間、七~四十九日間、死霊の供養が続けられます。

 百箇日(卒哭忌)は儒教の慣習から、人の魂が天(陽)に、肉体が地(陰)に帰り、天地を祀るのがその起こりと伝えられています。これに一周忌(小祥忌)三回忌(大祥忌)いずれも中国の葬制に由来し十仏事として我が国に伝わりました。鎌倉時代に七回忌、十三回忌、十七回忌が加わり、三十三回忌を弔い上げと称するようになり、十三仏事・年回法事として日本人の霊魂観と合うかたちになって、今日に至るまで行われています。

 死者(凡夫)を仏の子として目覚めさせ、中有の間、中陰の供養により、死者の魂を精霊(ミタマ)として成仏させて、迷うことなくあの世へ導きます。そして精霊という仏は子孫縁者より百箇日から一、三、七、十三、十七、三十三回忌の弔い上げまで(二十三、二十五、二十七回忌を加え)先祖霊へと昇華していくための供養を受けて、先祖霊として成熟します。

 先祖霊となった段階で個性を失うのですが、位牌や墓石に戒名が記されている限りにおいては、先祖霊となりながらも個性を有し、個人霊として存在し、五十回忌、百回忌の年回もつとめられる。ご先祖にたいする報恩の供養は悠久におこなわれ、次第に先祖霊は守護神の性格をもつようになります。
 畏敬の念をもつことの大切さ

 このように日本人の霊魂観に合ったかたちで追善供養は定着していますが、ホトケはいつも仏と精霊(ミタマ)の二面的性格をもっています。そして日本人は日々の安寧と子孫の永続を願い先祖に祈ります。それは「家」という単位であったけれど、近年は家から個人へと変わってきました。先祖をないがしろにすると仏罰天罰を受ける、大切にすると幸せがおとずれると考えられています。先祖を祀る心を失わないようにしたいものです。

 人がこの世に生まれてくるということは、縁起(直接的因果、間接的因縁)によると仏教は説きます。遺伝子の構造や生命科学的解明が進み、自分がこの世に生まれたのは父母、先祖のぶっ続きの命をいただいて、縁起により生かされていると、科学的にも理解できるようになりました。この世に生を受けたことの喜びを、縁起のうえからも自覚したいものです。受け難き人身を受けたこと、父母、祖先と続く命のつながりを、そして様々な命に支えられ、祖霊のご加護のもとに生かされているという事実を、畏敬の念をもって受けとめる謙虚さが現代人にもとめられます。

 内閣府が8月25日に発表した「国民生活に関する世論調査」によると、今後の生活で「物の豊かさ」と「心の豊かさ」のどちらに重きを置くかの問いに、「心の豊かさ」と答えた人が過去最高の64%であったという。大地自然やご先祖様に畏敬の念をもつことの大切さを認識している人も多いのでしょう。この謙虚な態度こそが日本人の生き方です。

 人の幸せとは何か、つきつめていくと「生きている」そのことにつきるでしょう。仏壇の本尊仏と位牌のホトケに手を合わすことで、自らも理想的人間像である仏になろうとする心が生まれてきます。
 人間はただ一人では生きられない。亡き人や、六親眷属七世の父母のみならず、有縁無縁、三界万霊、先祖の枠を越え、無縁の精霊にも救いの手をさしのべるところに、利他行としての追善供養の本質があるのでしょう。

  
死別、その悲しみを乗り越えて・・・・
葬儀~中陰~百箇日・新しい自分に変えていく

 卒哭(そつこく) 
生き方を、変える

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