2012年11月1日 良寛さん |
夏ほととぎす 秋はもみじ葉 |
捨てし身を いかにと問はば 久かたの 雨ふらばふれ 風ふかばふけ 良寛さんは江戸時代の僧ですが、なんとなく親しみを感じることから、良寛和尚などといわずに良寛さんとよばれています。幼名を栄蔵という。江戸時代の中期、1758年(宝暦八年)に越後、今の新潟県の出雲崎で生まれた。 18歳で出家して22歳の時に岡山県(備中の国)倉敷市の円通寺に行き、大忍国仙禅師について修行に入った。良寛さん32歳の時に円通寺の大忍国仙禅師よりもらった「印可状」は次のようなものでした。(印可とは指導者が修行者の悟りの境地を点検して、その円熟が認められれば修行者の悟境を認可し証明することです。) 良也、愚の如く、道 騰々 為に附す、 到る処の壁間、午睡 お前は一見愚の如くみえるが、 得た道はどのように転んでもゆるがぬひろい道である どこにでも気軽に飛んでゆくお前を 誰が引き止めたり看視できるものか 山から拾ってきた強い藤の杖をお前にやろう、 これを持ってどこへ出かけてもよい 到るところにお前の世界がある、 壁に立てかけて思う存分昼寝するがよい |
良寛さんは大忍国仙禅師よりもらった「印可状」を懐にして、円通寺を下りてより数年間の足跡はわからない。諸国を行脚していたのか、どこでどういう生活をしていたのか、その足取りは定かでないが、40歳近くになって越後に帰っている。 曹洞宗の修行道場である円通寺で、大忍国仙禅師について十年間の修行をしたが、大和尚とよばれるのも嫌ったようです。それで住職として寺に入らず、越後の国上山にある真言宗の国上寺の住職の隠居所である五合庵を長く住まいとしていた。 幾回か生まれ、幾回か死す 生死悠々として、窮極無し 今、妙法に遇うて、参究に飽く 生まれ変わり、死に変わりして 、 悠々と輪廻して、尽きるところがない おかげで「法華経」の真実を、 じゅうぶん味わうことができた いったいこれは、誰のおかげであろうか |
炊くほどに 風がもてくる 落ち葉哉 良寛さんの生き様を清貧とよぶ人もいる。良寛さんは世俗とかけ離れたようであるけれども、けっして世間を忘れた隠遁の生活者でもなかったようです。世間のことに、つかず離れずの処に居て、枯淡と風流を楽しんだようです。 世間の様をみて歌を詠んだが、歌よみの歌を嫌った。書家の書も嫌った、書家として名を残しているが、良寛さんの書には落款がない。曹洞宗の僧ですが、生涯、寺も持たず檀家もなく説法もせず、弟子もなかった。 生涯身を立つるに 騰々、天真に任す 炉辺一束の薪 誰か問わん、迷悟の跡 何ぞ知らん、名利の塵 夜雨、草庵の裡 双脚、等閑に伸ばす 立身出世に興味なく、 あるがままに任せている 頭陀袋には托鉢でいただいたわずかな米があり 当座の暖をとるだけの薪もある 悟りも迷いも、名誉も知りません 草庵にいて夜の雨の音を聞きながら 足を投げ出して、静寂を楽しんでいる |
良寛さんの生活ぶりは、けっして世間と隔絶したものでなかった。地域のさまざまな人との交流もあった。良寛さんは子供好きであったから、托鉢の道すがら子供らとよく遊んだ。伝えられているところによれば、良寛さんの親族はいずれもが苦難の生涯であったようです。また良寛さんは71歳のときに越後の地震にも遭っている。 往来の跡は幽なり、深夜の雪 あらためて己が七十余年の生涯をふり返えると 自分のこともあわせて、 世の中の良し悪しをいやというほど見尽くした 消し去ることのできないものばかりですが、 深い雪の中に隠れている 一本の線香を焚いて静かに坐っている、 庵の生活は静かなものです 越後の降りしきる雪の草庵で良寛さんは、最後の時をむかえた。禅堂では坐禅をするのに一本の線香をもって時間の表示とするが、命の時を刻む一本の線香は、年が明けた天保二年1月6日に燃え尽きた。74歳の生涯であった。 |