2013年12月1日 第179話             

静慮

 
   
  すべからく回光辺照の退歩を学すべし。
     身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。
                       [普勧坐禅儀]


あなたにとって幸せとはなんでしょうか

 「あなたにとって幸せとはなんでしょうか?」と問えば、「健康で、そして長生きできればそれが幸せです」と答える人が多いでしょう。でも、経済的なことや家族のこと人間関係での悩みがなければよろしいのですが。また、「財があって、家庭もおだやかで、人との関係も良好であれば幸せです」と答える人も多いでしょう。でも、病におかされていれば辛く苦しいですし、また仕事上のことや学校でのことで悩んでいるという人もあるでしょう。

 人は何かの悩みをかかえているから、悩み苦しみのない人などいないでしょう。生きていくことが苦しいということを「四苦八苦」の苦しみがあるといいます。生老病死の四苦のみならず、愛する人との別れの苦しみ、怨み憎しみあう苦しみ、求めても得られない苦しみ、何ごとにも執着してしまう苦しみなど、逃れられない深い苦しみを日々に感じて人は生きています。

 「ご主人が緊急搬送先の病院で先ほど亡くなられました。死因は心筋梗塞のようです。」と勤務先から電話が入ったとしましょう。朝元気に出勤していった主人が突然倒れて亡くなることもありえます。また、ご家族みんなで楽しい休日を過ごしたが帰路の途中で交通事故で亡くなる、そういうことも起こりうることです。生きているかぎり何が起こるか一瞬先は闇なのです。

 生きているかぎり生老病死のみならずさまざまな苦しみから逃れられないから、四苦八苦の苦しみに耐えて乗り越えて生きていかねばなりません。この世のことを娑婆といいますが、苦しいことがいっぱいあるところがこの世すなはち娑婆ですから、苦しいことにも耐えて生きていかなければならないのです。

娑婆で生きるとは

 生老病死は逃れられない苦しみですが、歳はとりたくない、いつまでも若くありたい、病になっても元気を取り戻したい、長く生き続けたいと、だれでもそう思います。また突然の不幸にみまわれないように、災難に遭わないようにと、神仏のご加護を願います。

 この世で生きていくには様々な苦しみ悩みがつきまといます。辛く苦しいことにも耐えていかねばならない、その悩みや苦しみとも上手につきあっていかねばなりません。この世とはそういうところだから、辛いこと苦しいことを乗り越えて生きていかねばならない、それが娑婆で生きるということでしょう。

 楽しければ楽しく、悲しければ悲しむ、おもしろければ笑い悲しければ泣けばよい。そうはいってもついつい我を張って肩肘張ってしまいます。歯をくいしばって頑張らなければいけない時は思いっきり踏ん張り、気楽にすればよい時は、ことさらにかまえないことです。

 ところが、私は、私がなどと、私からすべてが始まるように、何ごとにつけても自分中心です。自分が大切である、これが私たちの本音なんでしょう。さまざまな欲望があり、自分中心ですから、我欲を離れることがいかに難しいかということです。我欲から離れられないために、人は悩み苦しんでしまいます。

なぜ悩み苦しむのでしょう

 財欲とか食欲などの欲だけでなく、人は社会的に評価されたい、自分の存在を他に認められたい、人との関係を良好に保ちたいなどという欲もあります。そしてそれらが満たされず、人間関係でぎくしゃくすると、ストレスとして悩み苦しむことになる。

 とくに人間関係から生じる悩み苦しみは、いつまでもそのことを引きずっていると心の病につながってしまいます。済んでしまったことだから、過去の出来事としてことさら思い詰めることなく忘れ去ってしまえばよろしいが、身に染みついた心の傷はなかなか癒されません。

 悩み苦しみからの脱却とは、まず苦しみが何であるかをはっきりとさせます。そして「これは苦である」「これは苦の原因である」「これは苦の生滅である」「これは苦の生滅に至る道なり」と、現実をありのままに把握して、自分本位の観念で理解しないことが肝心です。

 人は何ごとにも執着してしまうから、妄想の迷路に迷い込んでしまい、その迷路からは抜け出せません。どうすればよいのかということですが、頭で考えてしまうから、迷いが迷いをさそいさらに深みに陥ってしまいます。何ごとにも自己流の妄想で理解せず、一切のこだわりを持たないこと、すなはち自己への執着心を捨てることでしょう。

ことさらにこだわらない生き方を身につける

 この世とは苦しいことがいっぱいあるところで、それに耐えて生きていかなければなりません。生きている限り何が起こるか一瞬先は闇、それが現実です。そういう世界に生まれてきたから、それに耐えなければ娑婆では生きていけない。そのことを頭で理解しょうとするから、悩みがまた新たな悩みを生み出してしまうようです。

 幸せとは何でしょうか、幸せであるとはどういう状態をいうのでしょうか。お釈迦様は、「幸せとは悩みも苦しみもないことをいう」と教えられました。それでは悩みも苦しみもないとはどういうことでしょうか。どうすれば悩みもなければ苦しみもない生き方ができるのでしょうか。

 日常生活でほんの少しの間でもよろしいから、床にあるいは畳に坐って、もしくは椅子に腰掛けて、いずれでもかまいませんから静かに坐ってみましょう。真っ直ぐに背筋伸ばして肩の力をぬいて、目は半眼にして、お腹の底からゆっくりと息を吐いてみましょう。上と下の歯をつけ口をつぐんで鼻からゆっくりと吐く呼吸法にしましょう。いろいろな雑念がうかんでも、捨てておきましょう。

 ほんの一時の静慮によっても、本来の自分を取り戻せます。現前の何もかもをありのままに、あるがままに受けとめたらよいのです。かまえてみても力んでも、ならないものはならない、なるようにしかならないものです。何ごともあるがままに受けとめ、ありのままに認識できれば泰然自若の生き方ができる。悩みもなければ苦しみもない生き方とは、何ごとにもことさらにこだわらない生き方を身につけることが、娑婆での生き方でしょう。
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