2014年7月1日 第186話 |
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本来の面目とは自己の本来のすがたであり、 自己に本来そなわっている仏性のことをいう。 その本来の面目は修行において現成します。 修行とは日常の断えざる努力の積み重ねです。 |
時々に勤めて払拭せよ 弘忍禅師の教えを受ける門下の修行僧が七百人いたといわれています。あるとき、弘忍禅師が修行僧を集めて、「誰かに自分の禅法を継がせたいと思うので、誰でもよいから自分のさとった心境を禅のこころをうたった詩で示しなさい、意に叶ったならば、第六祖の証明(印可)を与えよう」と告げられました。 高弟の一人に神秀がいました。神秀はだれもが認める徳望の高い人でした。神秀は自分のさとりの心境を禅のこころをうたった詩にして弘忍禅師が通る廊下に貼りました。 身是菩提樹 (身はこれ菩提樹) 心如明鏡台 (心は明鏡台の如し) 時時勤払拭 (時々に勤めて払拭せよ) 莫使惹塵埃 (塵埃をして惹かしむることなかれ) この身はさとりを宿す樹のごときもので、心は本来清浄で曇りのない明鏡のようなものだから、つねに煩悩の塵やほこりを払ったり拭いたりして、身や心を汚れぬように修行を怠ってはならない。 神秀は綿密な修行によりさとりを得ることができるとして、修行の大切さをこのようにうたいあげました。 |
本来無一物 弘忍禅師の教えを受ける修行僧の一人に慧能がいました。慧能は貧家の生まれで薪を売って生活していましたが、あるとき、「金剛般若経」の「応無所住而生其心・・・・なにものにもとらわれない心を生じるべきである」という一句を聞いて心を打たれて仏門に入ったといわれています。慧能は、精米を受け持つことを修行として励んでいました。 神秀のさとりの心境である禅のこころをうたった詩を見た弘忍禅師の門下の僧は、だれもがそれをたたえました。ところが慧能は神秀の詩は真実をついているけれど、まだ十分であるといえないと、自分の心境を神秀の詩と同じ韻を用いて詩をつくり神秀の詩のそばに貼りました。 菩提本無樹 (菩提本樹無し) 明鏡亦非台 (明鏡も亦台に非ず) 本来無一物 (本来無一物) 何処惹塵埃 (いずれの処にか塵埃を惹かん) 神秀は身は菩提と、心は明鏡というけれど、菩提もなければ煩悩もなく、本来無一物だ、だから塵や垢のつくこともない、それで払ったり拭ったりする必要もないではないかと、慧能はさとりの心境をこのように明らかにしました。 |
滴滴相承 多くの修行僧は、この慧能の詩を見て、禅の奥義をいい現わしていると驚いて感動しました。ところが弘忍禅師は「まだだめである」といって消してしまわれたという、一同はこれで納得して騒ぎは静まりました。 しかし、その夜に弘忍禅師は慧能に正法を伝授され、慧能は六祖となられたのです。一同が嫉妬するかもしれないから、弘忍禅師は夜ひそかに慧能を南方へ逃れさせました。 中国禅初祖の達磨大師から六代目の慧能は五祖弘忍の法を嗣いで六祖とよばれた。中国禅は達磨大師から、慧可、僧璨、道信と伝えられ五祖弘忍の門下から神秀と慧能が出て、それぞれ北宗禅、南宗禅の祖とされました。 慧能禅師の法はやがて如淨禅師へ、そして道元禅師により日本に伝えられ瑩山禅師から峨山禅師へと受け嗣がれました。 峨山禅師は二十五哲という有能な弟子を輩出され、日本全国に正法が流布していきました。平成27年はその峨山禅師の没後650年に当たります。 神応寺に峨山禅師の「本来無一物」の墨書があります。道元禅師没後110年目にあたる貞治二年、峨山禅師89歳の時に、道元禅師のご命日に永平寺で揮毫されたものです。お釈迦様が自覚された正法が慧能禅師の「本来無一物」の教えとして現され、ただ一すじに仏祖から仏祖へと今に伝えられてきました。 |
無一物中無尽蔵 修行を積み上げていく神秀の教風は北地でひろがったので北宗禅と呼ばれた。北宗禅は煩悩とさとりの対立的存在を仮定して、迷いを徐々に払拭して本来のさとりに達する漸悟である。 慧能の「本来無一物」は、物の真実の姿(実相)には、本来執着すべきものは一物も存在しない「絶対無」の世界だから、迷いとさとりをライバル視して、相対的認識による執着心や分別心を払拭することもなく、修行が実ったときが本来のさとりそのままだとするから、この慧能の南宗禅は頓悟といわれた。 迷いを徐々に払拭して本来のさとりに達する漸悟であろうが、「本来何もない」すべての執着を空じつくした本来純粋な真己の原点に立ち還る頓悟であろうが、神秀も慧能もともに弘忍禅師の弟子です。禅の修行とは日常の断えざる努力の積み重ねです。修行とさとりは一つのものだから、修行がさとりであり、さとりとは、すなはち修行そのものです。正法源眼蔵涅槃妙心、すなはち真実そのものを自分自身のうえに実現することが仏法の根本です。 この世のすべての事物は一瞬一瞬に移り変わっていくものばかりで、固定化・実体化したものは本来何ひとつありません。ところが、あらゆるものがかかわって、事物として存在しています。けれども本来「空」「無」ですから執着する何ものもなく「本来無一物」です。 この世のすべての事物にことさらに執着すると、本来は何もなく「空」「無」であるはずのことを見誤ってしまいます。心に一物もなく、妄想も何もかも捨てきったところに、この世の美しさや、ありがたさが満ちあふれている、そのことごとくが見えてきます。 食うか食われるかの生き残りをかけた競争社会に生きる人にとって、また日々の生活に追われている人には、神秀や慧能の話は隠遁者の絵空事のように思えるかもしれません。けれども、窮極の喜びをもとめて生きようとするならば、見えないものに目を向け、聞こえないものに耳を傾けて、実相(この世の真理)を探究すべきです。悩み苦しみのない生き方を説く仏法に、時には耳を傾けてみるのも意味のあることでしょう。 |