2014年11月1日 第190話             

無常の風


 
  光陰(こういん)()よりも(すみや)かなり、身命(しんめい)(つゆ)よりも(もろ)し、(いず)れの善功方便(ぜんぎょうほうべん)ありてか()ぎにし一日(いちにち)(ふたた)(かえ)しえたる、(いたずら)百歳(ひゃくさい)()けらんは(うら)むべき日月(じつげつ)なり、(かな)しむべき形骸(けいがい)なり、(たと)百歳(ひゃくさい)日月(じつげつ)声色(しょうしき)奴婢(ぬび)馳走(ちそう)すとも、其中(そのなか)一日(いちにち)行持(ぎょうじ)行取(ぎょうしゅ)せば一生(いっしょう)百歳(ひゃくさい)行取(ぎょうしゅ)するのみに(あら)ず、百歳(ひゃくさい)他生(たしょう)をも度取(どしゅ)すべきなり、此一日(このいちにち)身命(しんめい)(とうと)ぶべき身命(しんめい)なり、(とうと)ぶべき形骸(けいがい)なり、此行持(このぎょうじ)あらん身心(しんじん)(みずか)らも(あい)すべし、(みずか)らも(うやも)ふべし、我等(われら)行持(ぎょうじ)()りて諸仏(しょぶつ)行持(ぎょうじ)見成(げんじょう)し、諸仏(しょぶつ)大道(だいどう)通達(つうだつ)するなり、(しか)あれば(すなわ)一日(いちにち)行持(ぎょうじ)()諸仏(しょぶつ)種子(しゅし)なり、諸仏(しょぶつ)行持(ぎょうじ)なり。
 (いわ)ゆる諸仏(しょぶつ)とは釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)なり、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)()即心是仏(そくしんぜぶつ)なり、過去現在未来(かこげんざいみらい)諸仏(しょぶつ)(とも)(ほとけ)()(とき)(かなら)釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)()るなり、()即心是仏(そくしんぜぶつ)なり、即心是仏(そくしんぜぶつ)というは(たれ)というぞと審細(しんさい)参究(さんきゅう)すべし、(まさ)仏恩(ぶっとん)(ほう)ずるにてあらん。
  
                    【修証義】

     

光陰は矢よりも迅かなり、

 時を経て久しぶりに故郷へ帰ると、故郷の景色である山も川も何ら変わっていないように見えるかもしれませんが、山も川も森も全く変わっていないというものはありません。人が手を加えた場合は別としても、豪雨による土砂崩れなど、はっきりと目で確認できるもののみならず、山も川も森もみな変化している。

 この世の中に存在しているもので、どんなものでも変わらないというものはなく、ことごとくが、刻一刻と変化している。植物は芽生えて枝葉を伸ばし花を咲かせて実りの後に枯れる。動物も生まれて生長し子孫を残し死んでいく。生き物は命を受け継いで生死をくりかえしている。

 私たちの身体は、息を吸って吐く、この一呼吸の間に一千個の古い細胞が死んで、一千個の新しい細胞が生まれているそうです。すなはち一呼吸前と一呼吸後の自分は新しく変わっている。けれども自分の頭の中では同じ私だと認識していますから、このギャップが妄想であり、それは、いつまでも過去のことににこだわっている悩みの姿そのものです。

 この世の中に存在するもので変わらないというもの、すなはち不変なるものは存在しません。地球上でも、大宇宙であっても、存在するものすべてが変わりゆく。大いなる変化の流れの一瞬に私たちは今、生きています。光陰は矢の如しで、過ぎゆく時は速やかにして、この世の全てが無常です。

身命は露よりも脆し

 総務省が「敬老の日」に合わせて高齢者の人口推計を公表した。
65歳以上の高齢者人口が3296万人(総人口の25.9)、75歳以上が1590万人(同12.5)となり、いずれも過去最高。団塊の世代の1949年生まれが65歳になったのが一因で、4人に1人が高齢者、8人に1人が75歳以上で、日本は超高齢社会になったのです。

 人は健康で長生きしたいと願うから、量の長さを大切にした人生観は共感が得やすいけれど、人生は長さでなく、その質の濃さだという人もあります。超高齢社会であっても、生まれたものは必ず死ぬ。私達の命は露のようにもろく、人生はただ一度だから、いたずらに惰性の人生で終わってよいのでしょうか。

 2014年9月27日午前11時52分、長野、岐阜両県境の御嶽山3067㍍が噴火した。予期せぬことで、この日多くのお方が御嶽山に登っていました。青空のもと紅葉の美しい御嶽山頂に突然噴煙が上り始めたのです。異様な光景に驚き、危険を察知して登山者は山を下り始めたけれど、すぐに噴煙が覆い被さってきて真っ暗になり、噴石にあたって大勢の方々が命を落とされました。”まさか”という坂がある、その坂を転げ落ちることがあるのです。

 過ぎ去った時間は、これを再び元にかえすことはできません。光陰は飛ぶ矢よりも速やかに過ぎ去り、寸刻も止まることがない。また命はいつ尽きるかわかりません、人生には”まさか”という坂がある。一寸先がわからないほどに人の命は儚いものです。だから人に生まれた最勝の善身をいたずらにして、儚い身命を無常の風にまかせて、今、この時を無為に過ごしてはならないのです。

徒に百歳生けらんは怨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり

 「人もし生くること 百年ならんとも 怠りにふけり 励み少なければ  かたき精進に ふるいたつものの 一日生きるにも およばざるなり」と法句経に説かれています。何の得るところもなく、いたずらに百年生きたところで何にもならず、だから、せっかくの生涯を無駄にしてはならない。

 けれども、たとえ今まで欲楽の生活にふけって、五欲の奴隷となっていたずらに走り回っていたとしても、ひとたび自覚を得て、菩提心を発し、わずか一日でも自覚ある正しい生き方ができれば、いたずらに過ごした百年の歳月にも値するということです。

 私たちは何かを考えたり問いかけたりするときに、欲望から、どうしても自分の持っている知識や思惑にこだわってしまいます。自分の物差しで見たり聞いたりして、自分の物差しに合うものを是とし、合わぬものを非としがちです。それで私心を捨て無心になって見聞しなければ、本当のものに出合えません。しかも知識や理論にたよらず、自分の眼で見て、自分の心で受けとめないとだめでしょう。

 この世に受けがたき人身を受け、あいがたき仏法にあうことができた、この恩にたいしては何をもって報いるべきであろうか。露の如く儚い命を、いたずらに過ごすことなく、欲望のままに動く私心を捨て、正しいつとめを日々怠らずに励むことが報恩のあり方でしょう。

即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし

 煩悩いっぱいのこの身がそのまま仏(真理に目覚めて生きる人)であると口で説くことはたやすいけれど、凡夫の身心で仏そっくりの威儀を行ずることは、とてもむつかしいことです。また、ただ経の題目や仏の名号を口先だけで唱えても、春の田に蛙が鳴くが如しで、いっこうに我が身に仏心など現れようもない。

 良き生き方を望むならば、速やかに仏になろうとする心を発すべきです。ほんとうの幸せを感じようと思うならば、欲望をおさえて、正しいつとめを日々怠らずに励み、自分にそなわる仏心を呼び覚ますことです。一歩でも半歩でも、毎日無心に精進しておれば、おのずと有意義な人生になるでしょう。菩提心・道心・仏心に根ざした生き方をしたいものです。

 未だ菩提心も発さず、欲望のままに動く心識のままであれば、いつまでたってもこの身に仏心が現れない。けれどもお釈迦さまの精神を自分の精神として、一歩でも半歩でも歩みたいと願い実践実行するところにお釈迦さまと諸仏と自分が同じになれる。

 本当に楽しい日々を過ごそうと思うならば、この世の真理(仏)に目覚めようと、常に心にとめて、そこに生き方を合わすことでしょう。そのときお釈迦さまの気高い人生が凡夫の私の中にも輝き薫る、それが即心是仏です。自分を超えた味わい深い人生が出現するでしょう。
 諸仏とは誰をさすのか、それは釈迦牟尼仏のことです。しかし釈迦牟尼仏といっても、2500年前の釈迦牟尼仏だけでなく、即心是仏である今を生きる私たちです。

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