2016年1月1日 第204話             

即心是仏

 
      しかあればすなはち、即心是仏とは、
      発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。
      まだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、
      即心是仏にあらず。  正法眼蔵即心是仏
            

お釈迦さまは、ご自分の悟りのことを話された

 お釈迦さまは6年もの長い苦行の結果、すっかり痩せこけて自分の体さえも支えられないくらいに衰弱してしまわれたという。ようやくのことでナイランジャ川畔の木陰にたどりつき、身を休めていたら、遠くから村人の歌う声が聞こえてきた。それは 「弦の楽器はきつく張りすぎると切れてしまう、緩いといい音が出ない、ちょうどよいほどに張ってかき鳴らすとよく響く」 という意味のものでした。お釈迦さまはこれを聞いて苦行を止める決心をされた。そしてスジャータという村娘から乳粥のもてなしを受けて、次第に体力を回復されていかれたそうです。

 元気になられたお釈迦さまは、ガヤの街の大きな菩提樹の木陰にて禅定(坐禅)に入られ、そして明星の輝く黎明に、この世界はすべて真理をそのままに露呈していることに気づかれた。鳥たちも一斉にさえずり、ここちよい風がお釈迦さまの頬を吹き抜け、やがて明星は太陽の明るさのもとに見えなくなり、日の光をあびた草木が生き生きとして輝き、かぐわしい花の香りがあたり一面に漂よってきた。生きとし生けるものも、山川草木ことごとくひかり輝いている、その光景にこれまでにない感動をおぼえられたのでした。

 お釈迦さまがお悟りになったのは、この世はことごとくが真実真理の現れであるということです。悟りとは真実真理)が現わになったということで、お釈迦さまは真実真理に証(悟)せられたのです。 悉皆仏ですから、人も生きとし生ける全てのものも、山も川もことごとくがそのままに真実真理(仏)であるということです。自分も真実真理のであると、はじめて気づかれた人がお釈迦さまです

 お悟りになったゴータマ・シュッタルタ(お釈迦さま)はサルナートでかつての苦行仲間であった五人に再会されて、「明星出現の時、我と有情と大地と同時に成道す」と、自分の悟りのことを話された。苦行仲間はゴータマ・シュッタルタの悟りを讃えて、ゴータマ仏陀(覚者)と尊称された。そして五人の仲間も同様に、お釈迦さまのお悟りをそれぞれのものとされ、ともにその悟りにもとずいて生きていくことを誓われたのでした。
 お釈迦さまのお悟りが個人的体験であったならば、他がそれを受け入れることはありません。お悟りとはこの世の真実真理ですから、何人にも普く通じる「法」です。このようにして仏陀の法すなはち、仏法に基づく修行集団(僧伽)が形成されていきました。これは今から約2600年前のインドでの、お釈迦様につての実話です。

仏道修行を最初に実践されたのがお釈迦さまです

 六年にもおよぶ難行苦行の修行をつまれたからこそ、お釈迦さまはお悟りになられたのだという説がありますが、そういうことではありません。その苦行を止めて、菩提樹の下に禅定に入られお悟りになったのです。六年の苦行のことを修行というならば、お釈迦さまのお悟りはなかったでしょう。苦行がお釈迦さまを悟りに至らしめたのでなく、苦行を離れて禅定に入られて、はじめて安らぎの境地に至られたのです。むろん、苦行されたから、苦行の無力なることも理解されて、苦行からの脱却もできたのでしょう。

 人は我執の凝り固まりですから、苦行により我執から逃れようとしても、我執からはなれられない。なぜならば、苦行に執着すればするほど、限りなく欲望の炎は消えることがないからです。金銭欲や名誉欲から離れられたとしても、食欲、色欲、睡眠欲は人間の生理的欲求ですから逃れられない。欲望はどこまでもつきしたがいます。しかし世の無常を観じて、懺悔すれば、我執(煩悩)からすこしでも離れることができるようになる。

 人もそして生きとし生けるものを衆生といいますが、衆生はすべて仏なりです。ところが仏が仏として生きていれば、悩みも苦しみも無いのですが、仏らしく生きようとしないから自分で悩み苦しんでしまいます。悩み苦しみなく生きられれば、それはとても楽で快適です。ところが人間とは弱いもので、我執という甘い欲望についつい心動かされてしまい、煩悩の迷路にはまり込み、苦しみや悩みの泥沼に落ち込んでしまうのです。

 仏の生き方をしようと心に決めて、日々に仏道を修行しておれば、欲望とは何かが理解できるようになる。だが生きている限り、尽きない欲望の我執を離れることができないので、自らを戒め懺悔して我執(煩悩)を大きくしないようにと心がける、それが修行です。
 仏をまねて、仏となる、すなはち仏道という修行を日々行じていくことが仏教徒の生き方です。お悟りになったお釈迦さまは生涯修行を続けられた。仏道修行を最初に実践されたのがお釈迦さまです

常に新しい私として、今を生きる

 呼吸とは吸うて吐くのではなく、吐いて吸う、だから呼吸という。その一呼吸の間に人の体は一千個もの古い細胞が死滅して、一千個もの新しい細胞が生まれるという。一呼吸の間に新しい自分になっています。

 このように自分とは、どんどん新しい自分に生まれ変わり続けているのに、自分の頭の中ではちっとも変わらない自分だと思っています。刻々と体が新しい自分に変身していくのですから、同様に新しい自分になっていると認識すべきところが、変わらない自分だと思っている、このズレが問題です。このズレがどんどん大きくなると、過去にこだわり続けて、悩み苦しみの度合いも大きくなり、いつまでもそこから抜け出せなくなってしまいます。

 お釈迦さまは最後の説法に、自分を拠り所として、法を拠り所として、修行をおこたることなく生きよと教えられました。それは、仏道の実践者となれということです。仏道の実践とは菩提心を発して仏道を修行することです。 菩提心(仏心)とは、無上道心であり、仏であり続けることです。また菩提心とは、大慈悲心であり、利他行すなはち衆生済度の実践者として、世のため人のためにつくせということです。

 チンパンジーは今の対応が上手くできるが、明日という観念がなく、過去未来の認識がないといわれています。チンパンジーは人間のような過去未来のこだわりがないから、今を生きているのでしょう。ところが人間は我執のために、今を生ききれないようです。それでことさらに過去や未来にこだわり、悩み苦しんでしまうようです。無常の世です、仏の生き方をしようと菩提心を発して、今を生きることが幸せな生き方に通じる道です。

仏が、仏をまねていたら、ほんまもんの仏になる

 学ぶとはまねることで、仏道とは心身ともに真実真理(仏)をまねることです。仏が仏らしい生き方をしていると仏らしくなっていく。仏をまねていたらほんまもんの仏になる。けれども、仏が仏らしくない生き方をしていると、自分で悩み苦しむことになる。仏らしい生き方とは真実真理の仏法を日々修行することです。

 仏道修行とは、日々の生き方そのものであり、坐禅のみならず洗面も食事も、そして、ことごとくが修行であると道元禅師は説かれた。仏であるから仏らしく生きるべきであり、仏らしからぬ生き方をしていると、それはとても辛い生き方をしなければならないことになる。だから、日常生活において素直に仏の生き方を心がけよということです。

 仏らしからぬ生き方になってしまったら、懺悔して仏らしい生き方を取り戻せばよい。日々の生き方の基本は、欲ばらず貪らず、常に背筋伸ばして姿勢正しく、肩肘張らず、呼吸を整え、過去にこだわらず、今を生きることです。坐禅(坐禅ができなければ椅子に座っても、正座でもいいですから静に坐ってみましょう、それが仏をまねるということです。

 仏道とは仏らしい生き方をすることで、修行とは仏が仏のまねをして生きることです。日々仏らしい生き方をしていると、ほんまもんの仏の生き方になる。修行あるところ悟りありで、仏をまねていることが、ほんまもんの仏であるということです。仏らしく生きられたら、悩みも苦しみもない生き方ができる。「即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり」で、仏を生きることができれば、それが最も幸せな生き方です。.

 人間関係で悩んだり、諸々の課題に直面しながらも生きていかねばなりません。仏らしく今を生きることで、人間関係の悩みも、諸々の課題にも対応していける仏の力がついてくる。そうすれば日々好日になる。一年の計は元旦にあり、元旦は一年のはじめ、三朝の日なり。三朝とは、年朝・月朝・日朝なり。日々が修行であると、この一年365日、日々心して生きたいものです。

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