2022年2月1日 第277話
             
常寂光土

     天人常充満のところは、すなはち釈迦牟尼仏、
    毘盧遮那の国土、常寂光土なり。おのずから
    四土に具するわれら、すなはち如一の仏土に
    居するなり。 
正法眼蔵・法華転法華
           


此経の心を得れば世の中の、売買声も法を説くかな 道元禅師

 2022年より団塊の世代が後期高齢者になり始めます。それは毎年、百万人都市が一つづつ消滅するのに匹敵する多死社会の到来でもあり、少子高齢化の様相がいっそう顕著になるということです。そして「家」から「個」の時代となり、ライフスタイルも、家族の様子も、先祖祭祀も、大きく様変わりするでしょう。

 個の時代では精神的不安を感じる人々が増えます。コロナの蔓延により、またネットでのつながりが多くなるにつれて、人間関係が希薄となり孤独感を抱く人々が多くなります。生活のありかたも変わることから、生き甲斐を何に求めるかということで、人々は心のよりどころを模索するでしょう。

 仏教でいう世間とは、迷いの存在である生きとし生けるもの(衆生)が生死する場であり、困難な問題がある世界ということです。地獄・餓鬼・畜生を三悪道(三途)と、修羅・人間・天上を三善道として、この六種の凡夫が世間を構成しています。仏が生きとし生けるもの(衆生)救済のためにこの世に生まれ出ることを出世間出世)という。出世間とは困難な問題を解決する世界で、声聞・縁覚・菩薩と仏の四種の聖者の世界が出世間にあたるとされています。精神的不安を感じる人々が増えていますから、凡夫は仏に導かれることを願ってやまないのです。

 「示していわく、仏々祖々、皆な本は凡夫なり。凡夫の時は、必ずしも悪業もあり、悪心もあり、鈍もあり、癡もあり。しかあれどもことごとく改めて知識に随いて修行せしゆえに、皆仏祖と成りしなり。今の人もしかあるべし。我が身愚鈍なればとて卑下することなかれ。今生に発心せずんば何れの時を待てか行道すべきや。今強いて修せば必ずしも道を得べきなり。」このように正法眼蔵随聞記にあります。
 法華経の如来寿量品に説かれている教えを紐解くことで、現代に生きる私たちの生き方を考えてみてはいかがでしょうか。

以常見我故、而生憍恣心、放逸著五欲、堕於悪道中

 お釈迦様より前の時代に、過去七仏が共通して説いた教えが七佛通戒偈です。「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」、悪いことをせず、善いことをして、自分の心を浄めること、それが仏たちの教えです。
身心を悩ますいっさいの欲望におぼれることなく、仏の心である智慧と慈悲を自分自身の上に実現しようと志すことが、人の生き方であると説かれています。智慧は悟りという心、慈悲は利他という心です。

 仏の知見、すなわち智慧と慈悲は本来自分自身にそなわっています。このことに気づけば、人は煩悩の炎が消滅した涅槃寂静の心境を自覚することができます。そして、日常生活において智慧と慈悲の実践をこころがけようと思い、そうすることで心底から幸せが実感できるのです。真実の生き方を自分の問題として真剣に考えることが一大事の因縁であると、お釈迦様も過去七仏と同じ教えを説かれました。

 人は常に自分中心にものを見てしまうから、勝手気ままな心になって、あらゆる欲望におぼれて、しだいに悪の道に入り込んでしまいます。そして自ら悩み苦しみを招くことになり、失意や絶望のどん底に堕ちてしまうのです。

 三界とは欲界・色界・無色界のことで、すべての世界ということです。三界は唯一心で、一心とは仏心すなわち智慧と慈悲のことです。すべての世界は仏心すなわち真実の現われであるから、心と仏と衆生にもとよりちがいはなく、自分自身の上にこの一心を実現しようとするほかに別の法はないということです。このことに気づけば自分の姿がはっきりと見えるようになるから、迷妄なる自分の生き方を反省して、生き方を変えればよいのですが、なかなか思いどおりにならないから凡夫というのでしょう。

諸有修功徳、柔和質直者、則皆見我身、在此而説法

 あらゆる善行をおさめるということは、何も特別な修行を求めることではありません。社会の中で、泥まみれになったり、ずぶ濡れになったり、さまざまな荒波を一つずつ越えていくうちに人は成長していきます。つまずいたり、ころんだりしながらも前向きに元気を出して生きていると、お互いに認め合える人や善き導きをしてくださる人に出会います。そのように生きる人のことを柔和で質直な人というと、お経にあります。

 仏法、すなわち仏の智慧と慈悲にだれもが出会うことができるから、たとえば聞く耳を持たないと主張する人であっても無縁でないのです。人格が未熟な人は長い時間をかけて仏を見ることになるかもしれません。そういう人もあれば、仏を見ることなく人生を終える人もあるでしょう。

 「我は良医の病を知って薬を説くが如し、服すと服さざるとは医の咎に非ず。また善く導くものの、人を善道に導くが如し、これを聞いて行かざるは、導くものの過に非ず。」と、お釈迦様は最後の説法である「仏遺教経」でこのように説かれています。薬とは智慧であり、良医は慈悲です。

 素直で柔軟な人は、お釈迦様がここに在って真実を語っていると受けとめることができます。生まれたら死にゆくという流れの中で、わだかまりなく自分の生き方を反省し、より善い生き方を見出す機縁にめぐまれ、人生の真実の意味に気づけたらよいのでしょう。 

毎時作是念、以我令衆生、得入無上道、速成就仏身

 「天人常充満のところは、すなはち釈迦牟尼仏、毘盧遮那の国土、常寂光土なり。おのずから四土に具するわれら、すなはち如一の仏土に居するなり。」と、道元禅師は正法眼蔵・法華転法華の巻きでこう説いています。四土とは仏国土を4種に分類したもので、そのうちの一つが常寂光土で、永遠・絶対の智慧の満ちあふれたところです。それは今、私たちが日常に生活している現実のこの世です。

 「たといほとけになるべき功徳熟して円満すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成仏得道に回向するなり。」私たちが住んでいるところは常寂光土という世界です。この智慧の満ちあふれたところに住む人は、自分が救われる前に他を救う「自未得度先度他」の慈悲の心で生活すべきである。一人一人が菩薩としての自覚をもって生きていかねばならないと道元禅師はいわれました。

 自分のことは後回しにしても、何はさておいても、まずは他を救ってあげようという心を発したい。けれども、そういう善行を積んだことによって、自分が幸せになろうなどという気持をもってはならない。またたくさんの善行をつんだからもうこれで十分だという思いももってはならない。自分のためだとか、人のためだとかという思いもなく、いつからともなく、そういう暮らし方をしてきたのだということならば、仏の生き方のまねができているということでしょう。

 法華経の自我偈に「つねに自らこの念をなす、何をもってか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめん」とあります。お釈迦様の願いは何時でも衆生をこの上なき真実の道に入らせて、速やかに仏の命を実現させたいということです。ですから、この智慧と慈悲の心を我が身の上に実現することが、二度と無い人生の究極の意義であることに気づき、ここに生き甲斐をもとめ、己の生き方を善きものにして成仏得道しなければなりません。
 
悲しみや恐怖、苦しみや悩みに満ちあふれたこの世界において、煩悩の炎が消滅したところが涅槃寂静であり、それが常寂光土でしょう。

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