2022年11月1日 第286話
             
是諸仏教
   古仏云(こぶついわく)諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)自浄其意(じじょうごい)是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
                     
正法眼蔵・諸悪莫作

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意とは、菩提心を発すこと

 悩み苦しみのない境地を会得することを、さとる、というのでしょう。さとる、とは真理(法)に目覚めることですが、道元禅師は、自ら求めるものでなく、万法に証せられることだといわれました。これを願うことを菩提心(求道心)を発すといい、日常生活として求道することが仏道です。一心に仏道を修行することが精進で、精進するところ悪行(悪業)の生じることはなく、善行(善業)のみです。
 そのような生き方をすることの決意が発心で、そういう生き方の実践が修行で、さとらされること、すなわち、万法に証せられることが菩提であり、苦が消滅した安らぎの境地に入ることが涅槃です。
 道元禅師は修行と証
(さとり)とは一つのものであるから、発心・修行・菩提・涅槃を行じ続けることを行持道環といわれた。菩提心を発すことが行持道環で、これすなわち諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意です。

 また、道元禅師は菩提心(求道心を発すとは、四摂法の実践であると説かれました。四摂法とは利他行で、一つには布施、二つには愛語、三つには利行、四つには同事です。
 修行と証
(さとり)とは一つのものであるから、四摂法を修行することにより真理(法)に目覚める、すなわち、万法に証せられるのです。菩提心を発すとは利他行の実践で、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意です。

 布施とは不貪つまり貪らないことです。与えよう物でも心でも、仕事に励むのも布施、身を捨てて人に尽くすのも布施です。
 愛語は、愛する心からおこり、愛する心は慈しみの心を種としています。愛語には天下の時勢を変えるだけの力があるのです。
 利行というは、人々の利益になるようさまざまな手段をめぐらすことであり、相手のためになるよう手立てを尽くすことです。世の愚かな者は他人の利益をさきとすれば自分の利益は除かれてしまうと思うかもしれませんが、利行は自利も他利も一つになった法です。
 同事というは違わないことで、自分にも違わず他人にも違わず、自も他も一如です。海は水を斥けないから大を成し、山は土を斥けないから高く、明君は人を厭わないから国は安泰であるということです。

 菩提心を発すことを妨げるのが煩悩です。欲は貪瞋癡
(むさぼり、いかり、おろかさ)の三毒から湧き出るもので、金銭欲、食欲、睡眠欲、性欲、名誉欲など、尽きることがないのが煩悩です。煩悩は無尽であるから、悩み苦しみ続けることになるのです。それで、常に自己を省みることが必要です。菩提心を発すことが、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意だから、菩提心を発すことを妨げないよう、常に懺悔して煩悩の炎を鎮めましょうということです。


自性清浄心をたもつことが、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意

 人は仏の世界に生れて、生れながらに仏心、すなわち自性清浄心
(じしょうしょうじょうしん)がそなわった仏です。戒とは自性清浄心だから、戒をたもつことで煩悩が鎮まり、悩み苦しむことなく生きられる。
 お釈迦さまは日々の生活において戒をたもち、仏らしい生き方をしなさいと教えられました。戒をたもつ生き方を心がけよということです。

 道元禅師は懺悔
(さんげ)して、そして仏法僧の三宝に帰依(きえ)し、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)、十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)をたもつことを説かれました。

懺悔文
(さんげもん)
 我、昔より造りしところの諸々の悪業
(悪いわざ)
 皆、無始の貪瞋癡
(むさぼり、いかり、おろかさ)による
 身口意
(からだ、くち、こころ)よりの生ずるところなり
 一切、我、今、懺悔したてまつる

三帰戒
(さんきかい)・・・仏法僧の三宝に帰依します
 南無帰依仏
(なむきえぶつ)・釈迦牟尼仏(仏)に帰依する
 南無帰依法
(なむきえほう)・その教え(法)に帰依する
 南無帰依僧
(なむきえそう)・それを奉ずる人々の集団(僧)に帰依する

三聚浄戒
(さんじゅじょうかい)・・・三つの清らかな誓願
 第一摂律儀戒
(しょうりつぎかい)  ・もろもろの悪しきことを断つなり
 第二摂善法戒
(しょうぜんぼうかい)・もろもろの善きことを行うなり
 第三摂衆生戒
(しょうじゅじょうかい)・もろもろの衆生をわたすなり

十重禁戒
(じゅうじゅうきんかい) 十条の戒めの実行
 第一不殺生戒
(ふせっしょうかい)
  ・生命あるものをことさらに殺さない
 第二不偸盗戒
(ふちゅうとうかい)
  ・与えられないものを手にしない
 第三不邪婬戒
(ふじゃいんかい)
  ・男女の道を違えない
 第四不妄語戒
(ふもうごかい)
  ・うそいつわりの言葉を口にしない
 第五不酤酒戒
(ふこしゅかい)
  ・まよいの酒に溺れない
 第六不説過戒
(ふせっかかい)
  ・他人の過
(あやまち)を責めたてない
 第七不自讃毀佗戒
(ふじさんきたかい)
  ・己を誇り他の人を傷つけない
 第八不慳法財戒
(ふけんほうざいかい)
  ・物でも心でも施すことを惜しまない
 第九不瞋恚戒
(ふしんいかい)
  ・怒り腹立ちの心を起して他を傷つけない
 第十不謗三宝戒
(ふぼうさんぼうかい)
  ・仏法僧の三宝をそしる不信の念を起こさない

 戒とは、何人にもそなわっている自性清浄心、すなわち仏性・仏心ですから、自性清浄心を自覚する生き方が戒をたもつということです。
 戒には止悪・修善・利他の三種のはたらきがあるから、懺悔して、仏法僧の三宝に帰依し、三聚浄戒、十重禁戒の十六条の戒をたもつことを「日常の心得」としたいものです。十六条の戒をたもつことが、修行であり証
(さとり)であるから、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意です。

 お釈迦さまも、道元禅師も同じく最後の教えとして、如来の究極の正しい安らぎの心「八大人覚」を説かれました。八大人覚とは覚知すべき八種の法門で、少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戯論です。これを覚知することで心が鎮まり涅槃に通じるのです。
・少欲
(しょうよく)・・・少欲の人には、安らぎがある
・知足
(ちそく)・・・足るを知る人は、五欲にまどわされることがない
・楽寂静
(ぎょうじゃくじょう)・・・一時の寂静に、安楽あり
・勤精進
(ごんしょうじん)・・・不断の努力が、困難をなくす
・不忘念
(ふもうねん)・・・正法を念じて、心に銘記すべし
・修禅定
(しゅうぜんじょう)・・・坐禅を修するところ、仏心あらわなり
・修智慧
(しゅうちえ)・・・耳に聞き、心に思い、身に修せば、菩提に入る
・不戯論
(ふけろん)・・・戯論を捨離するところ、実相あらわなり
 この八大人覚を覚知することが、修行であり証
(さとり)です。人は生れながらに仏であるから、仏の生き方である八大人覚を修証することが諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意です。

 自浄其意、すなわち自らの心が浄らかであるということは、不染汚
(ふぜんな)の仏心である自性清浄心をたもつことです。掃除にたとえると、汚れているから掃除をするのでなく、もとより清浄であり、不染汚であることをたもつということで、浄、不浄にかかわらず、掃除は日常になされるべきものです。これが自性清浄心をたもつということでしょう。
 人には自性清浄心すなわち仏性という本来の面目がそなわっているから、仏性が現れ出る生き方をすればよいのでしょう。それには懺悔して、仏法僧の三宝に帰依し、三聚浄戒、十重禁戒の十六条の戒をたもつことを「日常の心得」として、八大人覚を「人生の道標」として、自己を仏として生かしていく、その修行がそのまま証
(さとり)であり、さとりを修行することが仏教徒の日々の生き方で、これすなわち、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意です。


七仏通戒の偈

 2500年の時を経て伝えられてきた教えで、仏教思想を一偈に要約したとされるのが七仏通戒の偈です。
 「諸悪莫作
(しよあくまくさ) 衆善奉行(しゆぜんぶぎよう) 自淨其意(じじようごい) 是諸仏教(ぜしよぶう) 法句経183」。もろもろの悪をなさず、すべての善をおこない、自らの心を浄めよ、これが諸仏の教えである。

 人は生れながらに仏である。ですから仏教とは、仏の教えであるとともに、仏であるための教えです。仏であるためにはどういう生き方をすべきであるかと問われたならば、ためらうことなく、「悪いことをしない、善いことをする、そうすれば自分の心も浄くなる、これが諸仏の教えである」と七仏通戒の偈は説いています。その意味は簡単明瞭であり、その教えるところに対してだれも異存はないでしょう。しかしそれを実践するとなると、これはなんとまた難しいことであるかということです。

 日常の修行によって、莫作の力量(修行の力量、はたらき)がそなわってきます。「悪いことはできない、善いことをせずにはおられない、そのような生き方ならば、自らの心も浄らかである、これが諸仏の教えである」。すなわち、この教えの実践とは、日々の修行によって自分を変えることです。「もろもろの悪はなされず、もろもろの善はなされ、自らの心を浄くたもつ、これが諸仏の教えである」ということです。

 白楽天が道林禅師に参禅した。ある時、「仏法の大意とはどういうものでしょうか」と問うた。道林禅師は「諸悪莫作 衆善奉行」と答えた。
 白楽天は「そんなことなら、三歳の童子でもそう言うでしょう」というと、道林禅師は「たとえ三歳の童子が言い得ても、八十歳の老翁も実践することはむつかしい」と答えたので、白楽天は礼拝して去った。 
 道元禅師は、このように唐の白楽天の故事を引いて、「正法眼蔵 諸悪莫作」の巻のむすびとされました。

諸仏の教とは、人が幸せに生きることの教えです

 菩提心(求道心を発すとは、真理(法)に目覚めるという修行であり、さとらされること、すなわち、万法に証せらるということです。このことを道元禅師は、修行と証(さとり)は一つのもの、修証一等であると教えられました。したがって、発心・修行・菩提・涅槃を修行することが、証すなわち、諸法実相(縁起の道理、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)をさとらされるということです。ですから、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意とは、菩提心を発すことです。

 「菩提心を発すというは、己未だ渡らざる前に一切衆生を渡さんと発願し営むなり」と、道元禅師は四摂法を説かれました。これは大乗仏教では菩提心(求道心)において、利他を強調するからです。
 「衆生を利益するというは四枚の般若あり、一つには布施、二つには愛語、三つには利行、四つには同事、これすなわち薩埵
(さつた)の行願(ぎようがん)なり(修証義)」。菩提心を発すことが四摂法の修行であり、さとらされる、すなわち、万法に証せられるということですから、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意です。

 人には生れながらに仏の性である、仏性がそなわっています。仏性とは仏心であり、自性清浄心です。仏性がそなわっていることを自覚して、仏の性を如何なく発揮する生き方が諸仏の教えです。自らの心を浄めよということは、そなわっている仏性を自覚して、自性清浄心をたもつことです。もとより清浄であり、不染汚である仏心をたもつことが修行であり証(さとり)であるから、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意です。

 道元禅師は、さとり(証)と修行(修)は一つのもの、修証一等といわれました。ですから、真理(法)に目覚めるとは、さとらされるということで、自らさとりをもとめようとすることは迷いです。発心・修行・菩提・涅槃も、四摂法も修証一等であるから、もろもろの悪はなされず、もろもろの善はなされ、自らの心は浄くたもたれる。修行(修)あるところにさとり(証)あり、修証一等、これが諸仏の教えです。
 生れながらに仏であることに目覚めて、仏として生きていくことができれば、それが無上の幸せであるということでしょう。自己の仏心に目覚めて(証)、仏心に違わない生き方をすることが日常生活(修)の全てであらねばならないということです。これが2500年の時を経た諸仏の教えであり、人が幸せに生きることの教えです。

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