2024年6月1日 第305話
             
大道

     水鳥の 行くも帰るも 跡たえて
       されども路は わすれざりけり
  
道元禅師


大道は長安に通ず

 中国では、大道とは、人の行うべき正しい道義、根本の道徳をいう。老子の言葉に、「大道廃れて仁義あり」とあります。人の道理が自然に行われていた昔は、仁義という人為的な道徳は必要でなかった。世の道理が失われたから、仁義をことさらに唱える必要が生じたのです。

 人として実践すべき道が行われていた昔は、仁義の道を説く必要もなかったが、後世になって道徳が行われなくなると、仁義を説くことが必要となってきたということです。 仁はひろく人や物を愛すること、義は物事のよろしきを得て正しい筋道にかなうこと、仁義道とはいつくしむ心と正しい道にかなう行い、人としておこなう正しい道ということです。

 禅問答で、道とは何かと問えば、真っ直ぐ行け、などと答えが返ってきそうです。真っ直ぐ行けとは、正しき道をすすめということでしょう。ところが、どの道が正しい道であるのかがわかればよいのですが、そうでなければ他に尋ねることになる。どこへ行きたいのか、その行き先が定まっておれば、方向が示されるでしょう。たとえば京都にあって、大阪への道をたずねるようなものです。

 ある時、ひとりの僧が趙州禅師に「道とは何ですか」と尋ねた、すると禅師は「塀の外が道だよ」と答えた。すると僧は「その道を問うたのではありません」というので、禅師は「どの道のことだね」と問い返すと、僧は「大道のことです」と答えた。
 ここでいう大道とは仏道を問うているのです。それで趙州禅師は「大道は長安に通じているぞ」と答えた。いたるところ道ならざるものはなし。すべてが道にあたるのだということです。

平常心是れ道

 趙州禅師が南泉禅師に「如何なるか是れ道」と問うた。南泉禅師は「平常心是れ道」と答えた。何かを目当てにして修行すれば外れてしまうかもしれない。では、目当てにしなければ、どれが本当の道であるかを知ることができるのでしょうか。もとより、知とか不知とかというようなものでない。知ることは妄想であるかもしれないが、知らないということも、またこまったものだということです。

 趙州禅師は、「自己とは何かと」尋ねられた修行僧に対して、「ご飯食べたか」と問い返された。修行僧が、「はい、食べました」と答えたので、それでは「食事した鉢を洗っておきなさい」と言われた。ご飯食をべたら食器を洗う、これが平常心であり、仏道そのものであることをしめされたのです。

 道を問えば、おまえさんの足下をよく見よ、などと答えが返ってくることがある。足下をしっかりと見定めて、踏み外すことなく歩めということです。足下の道はおそろしい迷路に通じているかもしれないから、心奪われることなく、気をつけろということです。自分の内面に目を向けないで、他に向かってものごとの本質を見つけようとしても、結局は何ごともつかむことができないで、本質を見失ってしまうことになるからです。

 「平常心是道」とはどういうことかと尋ねられて、瑩山禅師は「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と答えられた。何かを目当てにして修行すれば、それは道から外れてしまうことになりかねません。ですから、ほんとうのところを知り得ているならば、それはからっとした虚空のようなものだということです。

八つの正道

 般若心経には四諦すなわち、苦集滅道について説かれています。苦とはなにか、苦の原因とはなにか、苦の消滅とはなにか、ではその苦の消滅に至る道とは何かということです。
 「すべてのものは苦なりと、よく知恵にて観る人は、この苦をさとるべし、これ、やすらぎにいたる道なり」法句経278

 苦の消滅に至る道とは、執着することなく、心の差し障りを取り払うこと、それが苦をさとるということです。あらゆるものをさかさまに見たり、ないことをあると思ったりすることを離れれば、それが苦の消滅であり、苦の消滅に至る、やすらぎにいたる道だということです。


 「苦しみと、苦の原因と、苦の超越と、苦の停止に導く、八つの聖(きよき)道あり」法句経191。
 八正(聖)道は苦の超越、停止に至る八つの道のことで、苦の消滅に至る道のことです。すべてのものは縁により生じるものであり、縁により滅びるものでもある。因縁の法にしたがうのが善であり、因縁の法を無視することは悪である。因縁の法とは正道であり聖道ともいう。

 八正道とは、身も心も安らげる八つの行為です。正見(正しい見解)、正思惟(正しい意志)、正語(正しい言語使い)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(努力、励み)、正念(意識・注意)、正定(心の安定)です。この八正道とはやすらぎにいたる道なりということです。いずれもその意味合いはわかっていても、実践するとなると強固な信念と絶えざる努力が伴います。

日々の行住坐臥が仏道

 お釈迦さまは最後の説法で、弟子達に修行の道を示された。それは、自らを灯明として、自らをよりどころとせよ、法を灯明として、法をよりどころとせよと、自灯明法灯明の教えを説かれたのです。自己をそして、法をよりどころとしてすすみなさいといわれました。

 私達の一歩一歩、言動の一言一言がみな修行です。真理のど真ん中で生活しているのにこれに気づいていないようです。歩歩清風起こるで、一歩一歩の足下から清涼な風が起こっていることに気づかないといけないのでしょう。そのために、足をしっかりと地に着けて一歩一歩、人生道場を歩く、日々の生活の中に真実を見つけていく、これが歩歩是れ道場です。

 「水鳥の 行くも帰るも 跡たえて、されども路は わすれざりけり」これは道元禅師の詩です。
水鳥が水の面を行くときも、また空を飛ぶのにも、その跡は残らない。けれども、水鳥は飛んで行く道を忘れることもなく、違えることもなく、飛ぶべき道を飛んでいます。水鳥のゆくあとかたはないけれど、水鳥の本分とする道そのものを見失うことはないのです。

 仏道とは真実を体得した仏陀の道であり、さとりの境涯をあらわすものです。仏道とは真実を自己のうえに実現したもので、修行とさとりは一つのものだから、日々の行住坐臥が仏道です。
  お釈迦さまは最後の説法で、弟子達にすすむべき道を示された。それは、自らを灯明として、自らをよりどころとせよ、法を灯明として、法をよりどころとせよ、というもので、これが仏道です。

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