2024年7月1日 第306話
             
行仏

     それ修証は一つにあらずとおもえる、
     すなわち外道の見なり。
     仏法には修証これ一等なり。
     いまも証上の修なるゆえに、
     初心の弁道すなわち本証の全体なり。
                    
正法眼蔵弁道話


仏道は必ず行によって証入すべきこと

 日本人は人の生き方を道であらわそうとします。道とは人生そのもので、死ぬまでこれで終わりということがないから、絶えず新しいものを求めて工夫し改善し、そして挑戦しなければならないのです。道をきわめる修練と真実を自己の上に実現することは一体のものであり、道元禅師はこのことを修証一等と言われた。

 道元禅師は「赴粥飯法
(ふしゅくはんぽう)」で、禅の修行道場における食事作法を説いています。朝の喫粥や昼の喫飯について、食べ方を作法としてしめしたものです。修行僧は坐禅堂で食事をしますが、その入堂、出堂、坐り方、食器の取り扱いなどの食事の仕方すべてを作法として、順をおって細かく定め、作法によることが仏道修行であると教えています。

 道元禅師は食事のみならず、坐禅の仕方から、便所や浴室の使い方、洗面、掃除、など日常の行・住・坐・臥が仏道修行であるとし、それらの作法を定め、その作法にのっとり修行生活をすべしとされた。
 「作仏」とはさとりを目的とするということですが、仏道修行は作仏でなく、「行仏」すなわち修行することがそのまま仏であるから、威儀即仏法であるということです。

 「仏道は必ず行によって証入すべきこと」と道元禅師は学道用心集で説いています。それは行ずることがそのまま仏であるということです。仏道とは修行であり、行のめざすところは真理の体得です。真理(仏法)を自分自身の上に実現させることは、真理に自己を同じくすることにほかならない。真理に自己を同じくするとは、仏を行じるということです。それはまた、それぞれの分野で菩薩として世のため人のためにつくすということでもあるのです。道とは人の生き方であり行仏です。道とは人生そのもので、生きている限りこれで終わりということはないのです。

安楽の法門は坐禅なり

 涅槃とは煩悩の炎の吹き消されたさとりの境地で、悩みも苦しみもなく、寂静とは心静かで安らかであるということです。お釈迦さまは涅槃寂静に入る安楽の法門は坐禅であると教えられた。道元禅師は只管打坐(しかんたざ)がその境地であるとされました。

 只管打坐とは、ただひたすら坐禅することで、全身心をあげて坐りぬくことです。道元禅師は坐禅を自受用三昧
(じじゅようざんまい)とされて、坐禅になりきることを三昧王三昧(ざんまいおうざんまい)といわれました。

 仏法の体験は坐禅だけでなく、他に多くの入り口があるだろうといわれるかもしれませんが、坐禅が正しい入り口である。ではなぜ坐禅のみが正しい入り口であるというのか、それはお釈迦さまが得道の妙術とされたのみならず、インド、中国の祖師方はみな、坐禅から道(さとりの境地)を得られたからです。

 自受用三昧とは、仏法(お釈迦さまの教え・さとり)の体験のことで、それはただ坐禅することによってのみ得られるものです。仏法は、宇宙いっぱいにひろがっているものであり、めいめいの身の上にもそなわっているものでもあるが、修行しないと現れない、修行して実証しないと自分のものになりません。


さとりと修行は一つのもの

 「この法は人々の分上にそなわりといえども、いまだ修行せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」と道元禅師は説かれました。
 そもそも修行とその実証(さとり)が一つでないと思っているのは、仏教以外の思想家の考えです。修行とともにさとりがあることから、そのほかにさとりを期待する考えを持ってはいけないのです。

 自受用三昧とは、人間の営みの全くない妙術です。なにものにもとらわれない自由な境地です。煩悩が生じる根源である身と口と意(こころ)の三業を鎮めて、人間の意識作用でとらえることをやめて、正しい姿勢で坐禅することをまっすぐな入り方としています。

 「それ修証は一つにあらずとおもえる、すなわち外道の見なり。仏法には修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり。」 
(正法眼蔵弁道話)

 修行の心構えとして、さとりをもとめるために修行するのでなく、修行がさとりそのものであり、さとりと修行は一つのものであると受けとめなければならない。坐禅はさとりを目的として禅を学ぶという習禅でもない。道元禅師はこのことを修証一等(さとり・証と、修行・修とは一つのもの)といわれました。


ゼロ・0にリセットすることで安らぎの日々となる

 仏教とはお釈迦さまの教えで、それはさとりの実践です。日常がさとりの実践であるという生き方を仏教徒は目指します。さとりの実践とは修証一等だということですから、さとりの実践という道から逸れないことが修行であり、日々の生活として行じられれば、悩み苦しむことなく人生を歩むことができるでしょう。

 静かに坐ることが涅槃寂静の安楽の境地そのものであるから、心安らかな本来の自己にたち帰ることができる。坐禅すなわち修行とさとりは一つのものであり、さとりに始めなく、修行に終わりなし。だから、10分間坐れば10分の仏です。悩み苦しみの多い日々ですから、姿勢を直し、肩肘張らず、呼吸を調えて、椅子でも正座でもよいから坐るという一時を持ちたいものです。

 道を求める者の心得とは、自己にそなわる仏の智慧を実現しょうとする生き方を実践することです。自己にそなわる仏らしさをさらけ出した生き方、それが「さとりの実践」です。煩悩まみれの凡夫だからこそ、四六時中、つまり、いつでも心得ておきたいことです。

 坐ることで仏性(自性清浄心・仏心)が露わになり、自己本来の面目にたちかえることができる。即ちゼロ・0にリセットすることで、安らかな心で日常が過ごせるでしょう。

 

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