2024年110月1日 第310話 |
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自他一如 | |||||
菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に、 一切衆生を度さんと発願し営むなり、 修証義 |
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命のつながり この世の有様はすべてが原因と縁(条件)のからみ合いによって、生じ、また滅しています。つまりことごとくが因縁のもとに因果する、すなわちこの世は縁起によるということです。ですから関係して成り立っている。すべてがつながりにおいて存在している。このことをお釈迦様はさとられたのです。 この世の中の何もかもが、それぞれの存在にとって、他の存在が必要なのだと理解できればよいのでしょう。たとえば、植物と昆虫の関係において、モンシロチョウはキャベツとか菜種のような野菜に卵を産み、アゲハチョウはミカンなどの柑橘類に卵を産み幼虫が成長する。蝶といえどもそれぞれ相性があるようです。花の蜜を吸う蝶は花から蜜をもらうことによって、受粉をもたらします。 多様な生物が存在できるのは、自然界が多様だからです。ウジ虫とかゴキブリは気持ちが悪いから、殺してしまいたいと、また、恐ろしい毒蛇はこの世から消えていなくなればよいと考えるかもしれませんが、一つの生き物の存在は他の生き物の存在につながっていますから、ウジ虫も毒蛇も人間にとって無関係でない。目には見えない微小生物が多くの生き物の命を支えています。だから目に見えない生き物もかけがえのない存在です。 すべての命は連鎖すなわちつながっており、すべての生き物は互いに命を支えあっている。どんな生き物でも他の生き物にとって必要不可欠です、人間も例外ではありません。どんな生き物も生きるために他の命を食す、他の命の犠牲の上に成り立っている。食物連鎖は全生命に共通していますが、絶滅の危機にまで他の種を追いやってしまうのは人間だけでしょう。 そして、一つの生き物の死は同時にそれが他の生き物の命を支えることになる、他の命が他を支えて生かしているということです。したがって弱肉強食などということは自然界にはないのです。なぜならば一つの命の死は他の命の生を意味するからです。命はみなつながっている、どの命が欠けても他の命が生きていけない、生き物はみんなこの世に必要だから生まれてきたのです。 |
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利他という根本原則
太陽光と炭酸ガスと水がなければ植物の光合成は成立しないから、それによる酸素も生まれない。酸素がなければ人間や動物のほとんどが生きられない。呼吸というかたちで、空気中の酸素を体内に取り込んで、炭酸ガスを吐き出す、それがまた植物の光合成につながる。無関係であると思われるが、植物と人間とは共生きの関係にあるのです。このように、すべてが関係しており、互いの存在なしには、いかなるものもこの世では存在できません。 森羅万象の自然のめぐりとして食物連鎖で生まれ死んでいく命ですから、どんな命も大いなる命の循環に生きています。生かしあうのが生きものの姿です、どんな生き物も、命を生かしあっているから生きていける。大きな命の循環に気づき、命の大いなる循環に生かされていることに気づきたいものです。 人間には損得心や競争心があるけれど、自然界にはそれぞれの生物が子孫を残すための生き残りの攻防があるだけで、損得心や競争心はないのでしょう。 三千万種の地球の生き物の中で人間の脳の進化は著しく、他の生き物にない能力を持っているから、自意識が他の生き物に比べて格段にあり、他をいじめたり、自分で死を選ぶという行動をもとってしまいます。 どんな生き物でもその命は自然のめぐりによって親のもとに生まれた命です。どんな人でも自然のめぐりによってこの世に必要だから生まれてきた、かけがえのない命です。そして、この世に生きているということは、自分のために生きているのではなく、他の命のために生かされているということでしょう。この世においてはすべてが関係で成り立っている、すべからずつながっている。それが利他という根本原則です。 |
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他を生かし、他に生かされて 「花は無心にして蝶を招き蝶は無心にして花を尋ぬ、花開く時蝶来り蝶来る時花開く、吾れも亦人を知らず、人も亦吾を知らず、知らずとも帝則(ていそく)に従う」これは良寛さんの詩の一節です。 花には蝶を招く心はなさそうです、蝶にも花を尋ねようとする心が働いているようにもみえないが、花が咲くと蝶は飛んでくる、蝶が飛んでくるところに花が咲いている。花につく蝶は無心にして損得勘定がないから、味わいのみ取りて色香を損なうことはない。人と人ともそのようであると良寛さんはいわれました。 自他一如の心を良寛さんは無心と言われた、無心に生きられれば、それほど楽しい生き方はないでしょう。自他にこだわらない生き方とは、うばいとり、つかみとる手を、与えようささげようの手に変えていこうと心がけて行動することでしょう。 他を生かさずして自己は生きていけない、他のためにという生き方が、そのまま自分のためにということです。これは自然の大原則です。 自分など生きている意味がない、生きている価値もない、だれも自分の存在など必要としていない、などと思いこんでいる人もあるようですが、はたしてそうでしょうか。
職を求めても採用されない、余分の人材は要らないと解雇される、それを世の中が不景気だからとか、原因を世の中のせいにしてしまえば一歩も踏み出せなくなるでしょう。そうではなく、世の中では今、何を必要としているのか、世の中で必要なことをしっかりと自分で見つけだせれば、それが仕事になり、生きていけるはずです。また必要とされる人格、必要とする能力をそなえた人ならば、世の中は必ずその人を必要とするでしょう。 だれもがこの世に必要だから生まれてきた、そしてお互いを必要とするから生きていける。他を生かさずして自己は生きていけない、自分のためにという生き方が、そのままに他のためにということでなければ自己は生きられない。縁起の世においてはすべてが関係で成り立っている、すべからずつながっている、これを無心というのでしょう。ですから自他一如で、利他はそのまま利己です。 |
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同事というは自他一如なり 世間が地域社会から国境を越える時代になりました。けれども地域社会の世間も、国際的な世間も、人は人との関係のもとに生きていることに変わりありません。人はみなこの世の共生きの同居人ですから、地域社会でも、国際社会であっても、利他(他の人びとを利益し、救済につとめること)という生かしあいの精神は通用するでしょう。グローバルな時代であるからこそ、よりいっそう利他の精神が尊ばれなければならないのです。 この世の中はたった一つでは存在できない世界です。万物生命の支え合いがこの世の姿であることに思いをめぐらすと、命の尊さを認め合えるでしょう。生きとし生ける万物生命の共存が根本にあることを認識すれば、人間関係の悩みの解消も、環境の保全も、戦争やテロをなくすこともできるでしょう. 「他を幸せにしなければ、自らの幸せはない」、人生は利他行です。この利他の願いを持ち続ける限り、その人は優秀であり、価値のある人間です。生きものは逆境にさらされると強い、苦しい時こそ利他の生き方が生命力を活気づかせます。自分に満足できる生き方は利他行により可能になるでしょう。 生きとし生ける命は、お互いに生かしあっている。どんな命も欠くべからざる存在であり、どれ一つが欠けても他を生かせないのでしょう。 「菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に、一切衆生を度さんと発願し営むなり」と修証義にあります。この世においてはすべてが関係で成り立っている、すべからずつながっている。ですから自他一如を道元禅師は同事と教えられました。生きずらくなく、心地よく生きていこうと思うならば、他を幸せにしようと心がける生き方をすべしということで、そのことが自身に幸せを呼び込むことになるのです。 |
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