2025年1月1日 第312話 |
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精進 | |||||
精進こそ不死の道 放逸こそは死の道なり いそしみはげむ者は 死することなく 放逸にふける者は 生命ありとも すでに死せるなり 明らかに この理を知って いそしみはげむ 賢き人らは 精進の中に こころよろこび 聖者の心境に こころたのしむ 法句経 |
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最近の傾向として、子供が成長していく過程において、立派な人間とは何かとか、生きる意味について学ぶということがないようです。成長する過程で、何を求めて、何んのために学ぶのか、深く考えることもなく、子供は親の安心を得るために進学用の学びをしているようです。 家庭でも学校でも「生きる意味とは」の問いかけを子にしないから、子供は進学用の勉学のみ励むことになる。「立派な人間になりなさい」と親は言うが、進学時の子供は学力向上のみが関心事となり、生きる意味を家庭でも学校でも教えないので、子は精神的にひ弱であり、強靱な生きる力がそなわっていないから、世の波にのまれてしまいがちです。 世間の物差しで測れば、優等生となることを親は子に求めますが、優等生が実社会で「立派な人間」にあてはまるとは言えません。同様に劣等生が「つまらない人間」であるとはかぎらない。世間の物差しで測るから劣等生とか優等生というランクがつくのです。 「つまらない人間」が劣等で「世の中に役立つ人」が優等であるとも言い切れません。つまらない生き物とか、世の中に役に立たない生き物などないからです。したがって、世の中に役に立たないという人もいません。世間の物差しに執着しなければ、おもしろい人生が生きられそうです。 |
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「つまらない人間」であり、「世の中に役立ない人」であると思い、自分など生きている意味がない、生きている価値もない、誰も自分の存在など必要としていない、などと思い込んでいる人もあるようですが、はたしてそうでしょうか。この世は何もかもが互いに関係し合って存在している。お互いを必要とすることでこの世は成り立ち、それぞれが存在しています。 人は一人では生きていけません、生きとし生けるものも同じで、ただ一つで存在できるものはない。人間という言葉の意味は、世の中ということだから、世の中に生きているということは、一人一人が世の中の構成員であり、他の人とつながり、支え合う存在です。すなわち必要とされる何かがあるから、その人は存在している、必要でなくなれば存在する意味を失うということでしょう。 職を求めても採用されないとか、余分の人材は要らないと解雇される、それを世の中が不景気だからとか、原因を他のせいにしてしまえば一歩も踏み出せなくなるでしょう。 そうではなく、この世とは共生の世界であるから、世の中では今、何を必要としているのか、世の中で必要なことをしっかりと自分で見つけ出せれば、それが仕事になり、生きていけるはずです。また必要とされる人格、必要とされる能力をそなえた人ならば、世の中は必ずその人を必要とするでしょう。 ”なぜ”ということがいつも念頭にあれば、”なぜ”、この世に生まれてきたのか、自分が”なぜ”他を必要とするのか、自分は他に”なぜ”必要とされるのかがわかるでしょう。 この世では、他に必要とされる生き方をするという自覚が大切です。自分はどのように必要とされているのか、なにをすればよいのか、永遠に見つからないかもしれませんが、熱っぽく自分探しを続けていくべきです。幸せとは、他に必要とされる生き方をすることでしょう。 |
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自他共に喜びの感動を共有できればそれほど幸せなことはない
2011年10月に亡くなったアップル社の最高経営責任者であったステイーブ・ジョブズさんは「心の琴線にふれるものづくり」をめざされた。成功するとはあきらめないこと、成功するまでチャレンジされた。人とちがうことを恐れるようになったら駄目だと、自分の感性を信じて、技術を高めて、どんな価値を生み出すか、本質は何かを探し求めて、ぶれることなく、驚きと感動を世におくりだした。ステイーブ・ジョブズさんは禅に興味を持ち禅僧とも交流がありました。心にひびくものが禅にあったのでしょう。 感性とは感受する能力と、それにより行動する能力です。意識して感性のレベルを上げていくと、より高いものを求めたくなる。感性のレベルを高めるとは、絶えず感性のレベルアップに努めることです。自己の感性のレベルを高めていくと、音楽であれなんであれ、他との協調を喜び、異質のものをも受け入れて、よりすばらしいものをつくりあげていこうとする意欲もわいてくる。美しいものにふれることで、人は穏やかな、心安らぐ気持ちを持つことができるでしょう。 格差社会のあらわれでしょうか、日本では他からの支援にたよって命をつないでいる人が最近多い。またうつ病で悩み苦しんでいる人が若い世代に多い。なにがそうさせてしまったのか、若者が活躍する場が奪われてしまったのか、生きる希望と勇気を持つことができない、そういう社会になってしまったのでしょうか。 若い人ならば人生はこれからなのに、生きる希望も勇気もなくして、生きている意味をも感じなくなってしまったと思いこんでいる人があるようです。また、老いたりといえども生き方が消極的になってしまえば、幸せ感は得られないでしょう。 うれしいときに喜び、悲しいときに涙する、こういうことが人の自然な姿です。そして他の悲しみを自分のこととして悲しむ、他の喜びをともに喜べる、喜びと感動を求めて絶えず自分の心の琴線をふるわせることができれば、それは他の人や社会にも影響して多くの人々の心の琴線をふるわせ、感動を与えることにつながり、自分も他もともに深い喜びの感動を得ることができる。自他ともに喜びの感動を共有できればそれほど幸せなことはないでしょう。 |
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生きてる限りこれで終わりということはない 生まれてきたからには、生きている喜びと楽しみを得ることができなければ、せっかくこの世に生まれてきた甲斐がない。 向上心を失わず、向上心を常に鼓舞して、ものごとの本質を求め続けて生きている限りにおいて、その人は幸せの歩みを踏み外すことはない。向上心を高めるとは、ものごとの本質を求め続けるということでしょう。 「必ず行によって証入すべきこと」と道元禅師は言われました。それは行ずることがそのまま最高の人格に到達すること、すなわち仏に成るということだからです。あるいは仏にならずとも、それぞれの分野で菩薩として世のため人のために尽くせる人になることです。向上心を高めるとは、ものごとの本質を求め続けるということであり、自分のみならず他にも幸せをあたえるということです。 命はいつ果てるかわかりません、そして、死んでからのことなどわからない、あの世とはこういうところだと語り聞かせてくれるものなどいません。だから、お釈迦様は死後のことを聞かれてもお答えにならなかった。そして、「怠けることなく、自己を完成せよ」と、今をよりよく生きることを教えられました。 よりよく生きるとは、善き業を身につけ、悪しき業を身につけないということです。どういう生き方をしているか、その人の行為を業といいますが、この業だけは死んでからもその人について離れません。向上心を失わず、向上心を常に鼓舞して、ものごとの本質を求め続けるという、不断の善行のことを精進というのでしょう。 |
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