| 無常を観じる | |||||
すべては無常なりと、知恵にて観る人は、 よく苦をさとるべし、これ安らぎにいたる道なり 法句経277 |
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葬式は単なる人生の通過儀礼でしょうか 人は死後どうなるのかについて、そのとらえ方は民族や宗教によってもさまざまです。しかしどの民族、どの宗教においてもいえることは、葬祭(葬式と先祖霊まつり)が人間の文化にとって重要な意味を持つということです。 猿は死んでも弔(とむら)いの行動をしません、人間だけが死者に対する儀礼を行います。それは死の事実を超えて存在する霊魂(精霊(しょうりょう))の存在を認めることを前提としているからです。葬祭を行うことによって人間は文化的な営みをするようになったといえます。 全国ネットのテレビ局が、葬式は人生の通過儀礼であるという番組を報道しましたが、はたして葬式を成人式や結婚式と同じように人生の通過儀礼だと言いきれるでしょうか。 日本人の宗教的風土は祖霊崇拝がもとになっていますから、古来より葬式は人という地位から祖霊という次の地位を獲得することを保障するものでした。すなわち葬式は人という地位に別れを告げる式であるとともに、祖霊となる旅の出発式です。中陰から年回法事へとつながっていく祖霊まつりの始まりが葬式です。 駒澤大学の佐々木宏幹さんは、お葬式について、「葬祭は亡き人が死後の世界において安定した地位・身分をうる、すなわち『仏になり、神になる』までの一連の過程において、故人のために営まれる一定の儀礼群を意味する。」と定義づけられました。 葬式には、送る者(僧・家族・知人)があれば、一方には送られる者(死者)がある。葬式としておこなわれることは、まず、①遺体の始末で、遺体を埋葬(まいそう)するか荼毘(だび)にします。つぎには②霊魂の処理です。そして③遺族の心の整理です。 送る者は社会的儀式として死者に別れを告げて、肉体を自然に帰し、魂を仏国土(ぶっこくど)へ旅立たせる。古来より日本人の葬式は「魂の旅立ち、魂の再生の儀式」でした。この世から冥土(めいど)への旅立ち、それは人間の位から先祖霊(祖神)となる旅立ちを意味します。 葬式の準備は旅立ちのための用具をそろえ、旅立ちの場をつくることです。そして葬式の後は四十九日間にわたり黄泉路(よみじ)の安寧を祈り供養を続けます。その間に遺族の心もしだいに癒され、落ち着きを取り戻していきます。 単に通過儀礼だからと、家族や知人が別れを告げて荼毘に付す、ただそれだけであれば、日本人の宗教的風土である祖霊崇拝(それいすうはい)の第一歩である、送るという意味がまったく抜け落ちてしまいます。安楽浄土に導く、僧侶の姿もありません。 古代より先祖霊(祖神)をまつることを日本人は宗教としてきました。そして人の生き方を説く仏教が伝来してからは、祖霊崇拝と仏教とが合わさったものへと次第に変貌していきます。お釈迦さまの教えが各地に伝わっていくと、それぞれの地域の習俗や宗教と混ざり合って、さまざまな信仰形態ができあがっていったのと同様のことです。 弔いの儀礼も、日本人の宗教的風土である祖霊崇拝と仏教とが、さらには儒教が合わさったかたちのものとなり、江戸時代になると葬式に僧侶が関わるようになりました。 |
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葬式は人間としてこの世から旅立つ「人生の送別会」であり、
死はゴールでなく祖霊として「永遠に生きる出発式」でもある 仏教での葬式はまず迷いの人間を、さとりの仏に導き、そして安楽浄土へ送ることを基本にします。煩悩を積み重ねてきたおろかな自分に気づいていただく(懺悔(さんげ))、そして、人間的煩悩をよりどころとして生きてきた自己から、宇宙的真理(仏法(ぶっぽう))におまかせして生きる自己への転換(受戒(じゅかい))がまず前提になります。 生きている人が仏に導かれるのが本来のかたちですが、ほとんどの人は生前に授戒の機会にめぐりあえなかったことから、葬儀において受戒して、本来生前に授かる戒名(かいみょう)も葬式の中で授かることになります。 凡夫がこの世で仏となり、この世からあの世へと僧侶の引導(いんどう)で送られて、祖霊の仏になる。葬式とは単なる人生の通過儀礼でなく人間的煩悩を解脱した今生の仏の弔いであり、家族や子孫を見守るあの世の仏、祖霊の仏となる出発式でもあります。 もともと葬式は村社会の儀式行事であり、その弔いごとは一族の長老が、または隣組の長が葬儀委員長となって野辺(のべ)の送(おくり)が営まれてきました。したがって家族が死んだときには、葬式のすべてをその地域の相互扶助システムにゆだねればよかったのです。 近年になって葬儀業者が葬式のすべてを業務として請負うようになると、野辺送(のべおくり)の式でなくなり、故人との別れを告げる式として演出され、告別式という表現が一般化しました。それにともない葬式は「別れを告げる式」であると理解する人が多くなりました。 最近の風潮として、葬式を先祖祭りにつながっていく儀礼であると解釈していないから、「葬式は必要か」「何のために葬式をするのか」などの議論が起こるようになりました。 人生の最後を病院でむかえ、そして病院から移送される先は住み慣れた自宅でなく葬儀業者さんの斎場というのが多くなってきました。病院での死は、とかく肉親との距離をつくってしまいがちです。遺体に触れることさえ無い場合があります。せめて末期(まつご)の水をさしあげて湯灌(ゆかん)(棺に納める前に、湯でふいて清めること)だけでも身内の手で行ってあげたいものです。痩せこけた母のなきがらに、自分の親不孝をつくづくと思うことでしょう。 葬儀業者にまかせっきりにしないで、感謝の思いと真心をこめて尽くし、死の重み、生の重みが感じられる送る式としたいものです。 ある老人ホームでの葬式ですが、すばらしい光景に出会うことができました。お棺が置かれた左右にお花が飾られただけの簡素な老人ホーム内での式場でしたが、お仲間がみんな集まって、同僚を送りました。送棺にあたって「あなたが先に旅立つことになりました、そのうち私も行きますから、先に行って待っててね」「私が行ったらその時にはまた仲良くしてね、あの世でまたともに仲良く生きていきましょうね」と、悲しみに涙しながらも、笑みを浮かべて、次々とお花をお棺に入れました。そして車椅子の合掌の列の中を、お棺が静かに運ばれ旅立って行かれました。葬式は人間としてこの世から旅立つ「人生の送別会」であり、死はゴールでなく祖霊として「永遠に生きる出発式」でもある、そのことをあらためて実感しました。 |
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僧侶はこんな言葉を遺族からよくかけられます。息子さんから「おふくろがいいところへ行けますようにお願いします」娘さんからは「先に亡くなったお父ちゃんのところへ、お母ちゃんもちゃんと行けますように頼みます」その行き先は黄泉(よみ)の国、冥土(めいど)です。遺族には黄泉路(よみじ)に迷うことなく無事に冥土に到達してほしいとの願いがあるからです。 葬式は祖霊(それい)となる出発式であり、四十九日間にわたる追善供養(ついぜんくよう)がなされて、死者は冥土に至り成仏して祖霊となる。古来より日本人は死後に成仏して、子孫に尊敬される祖霊となることを願いとしてきました。四十九日を経て死者の魂は「おやま」におもむき、ご先祖さま、すなわち祖霊(祖神)となる。その「おやま」から、正月には歳神(としがみ)さまとして迎えられて新年を祝い、盆には精霊(しょうりょう)として迎えられて供養を受けます。 火葬にした焼骨は墓地に埋葬して大地自然に帰します。海に散骨されることもありますが、はたして魂の行き先である「おやま」に到達できるのでしょうか。 お釈迦さまは霊魂や死後の世界について、何も語らなかったそうです。ただ、この世の生き方こそが大切であると説かれた。お釈迦さまはご自分の弔いのことも語られなかった、けれども弟子達や多くの人々によって盛大な葬式がなされたと伝えられています。 生前の生き方がどのようであったのか、人々に尊敬される人は、教えを受けた人々、お世話になった人々によって、感謝と恩返しの思いから鄭重に弔われる。どのような生き方をしたのか、その人の生きざまがそのまま自分の葬式を演出していることになるのかもしれません。 死が突然である場合と、病床看護や介護がなされた場合と、老若、男女によっても違いはあるけれど、人の死、それが身近な人であればあるほど、悲嘆、落胆は大きいでしょう。その程度は深く、長く続きます、場合によってはそのショックから立ち直れずに、自分の命をちぢめてしまう人もいるようです。日本人は欧米人と比べると、この悲嘆からの回復の程度が早いといわれています。それは亡き人のミタマ(ホトケ)をまつり、日々の生活を共にするからです。 |
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| 報恩の心 葬式において僧侶は、死者を仏の子として涅槃(ねはん)(悟りの境地)へと導きます。そして、葬式から四十九日間の中陰、百箇日、一周忌と続く追善供養(生者の善行(ぜんぎょう)の報(むく)いを亡者に手向(たむ)ける)をとおして、死者は永遠に消滅するのでなく、ホトケとしてまつられます。亡き人は遠いところへ行ってしまうのではなく、家の中に仏壇を設けて位牌としてまつり、墓地には墓石を建てるから、寂しい時、悲しい時には日常的に仏壇に向かって語りかけ、また墓に参ることによって亡き人(ホトケ)との対話ができる。日本人はこのようにして、亡き人や祖霊と日常に共生きをしています。 仏教では四十九日の中陰(ちゅういん)(中有(ちゅうう))の期間をもって人の一生の終わりとします。最近は中陰(中有)の期間を短くする傾向が見られますが、その人の一生を短くしてしまうことになります。悩み苦しみながら死んだ人や、子供の死、突然の死、事故死の場合は、中陰の期間がとても大切です。三ヶ月にまたがろうが全く問題はありませんから短縮しないようにしたいものです。遺族は中陰のつとめに忙殺されているうちに、悲嘆に打ちのめされることもなく、時が過ぎていくのでしょう。 日本人の霊魂観では、中陰の四十九日間は亡者が冥土へ移行する期間であり、追善供養を受けた亡者が新たな祖霊(ホトケ)となる修行期間だと解釈します。それは荒御霊(アラミタマ)が和御霊(ニギミタマ)になり、先祖霊となる初期の過程です。親族により一周忌、三回忌、七回忌と追善供養が重ねられて、先祖霊(祖神)として成仏します。 「千の風になって」という歌が、亡き人を偲び、生きる心の糧となって、多くの人々に安らぎと生きる勇気をあたえています。亡き人が風となって地上に吹きわたり、また雪や雨となって大地に降りそそぎ、草木として花を咲かせ微笑み、鳥になってささやきかける。森羅万象に亡き人の姿をイメージして、亡き人とともに生きていくのだというところに、日本人の心に響くものがあるのでしょう。 最近の傾向として、葬式が日本人の祖霊崇拝の初めの第一歩にあたると理解されずに、「別れを告げる式」だと解釈されているから、お葬式も戒名も不要だと自分の死後の取り扱いを書き残す人がいます。しかし、こうした自分の死後の取り扱いのことよりも、祖霊(祖神)に加護されることで、家族や子孫が日常の安心を得るという日本人の祖霊崇拝や「おかげさま」というおおらかな心を大切にしたいものです。 ご先祖さま(祖霊・祖神)は私たちの命の源です。命が途切れることなく受け継がれてきたからこの世に自分が生まれてきたのです。毎朝、一本の線香をまっすぐ立てて、仏壇の本尊仏と位牌のホトケに手を合わせ祈る。亡き人を偲びまた感謝するとき、今の自分をふり返り向上しようとする心がうまれてきます。 道元禅師は「菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すは無常(むじょう)を観(かん)ずる心なり」と説かれました。無常を観じることで、菩提心(仏になろうとする心、仏の生き方を実践する心)が自然に生まれます。仏と共に生きる、この思いがあれば自らの心の仏も目覚めるでしょう。つらく悲しい別れであっても、それを乗り越えていけば、かならず明日への生きる喜びにつながります。その向こうには幸せが見えてくるはずです。 安達瑞光 著 「卒哭」 より |
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